CHAPTER1『日常』 第一話
――――ねえ、僕の声にも耳を傾けてよ。君は我が物顔で使うけど、元々は僕のものなんだからさ?
瞼が重くて、目が開けられない。慣用句的な意味合いではなく、本当に瞼が動かないのだ。
上と下の境界線が何かで溶接されてしまったようで、瞼そのものに錘をつけられてしまったようで。
動かそうと思っても、一ミリだって動いてくれない。
手で無理やりにこじ開けようにも、その手も動いてくれる感覚がしないのだ。
そもそも、ここは自分の意識だけが支配しているようで。
その中でぼんやりと、一人の少年が現れる。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、朝の靄が立ち込めるように、焦らしながらその姿を表わすのだ。
一人の幼い男の子が。どうにも悲しそうな表情の彼は、その姿を見せてくれようとしない。
ただ、目が開かないのに、瞼の裏のスクリーンの上に、彼の映像が浮かび上がる。
彼は、小さな両手で顔を覆い隠して、憎悪を込めて泣いている。
所々開いた指の間から見えているのは、引き込まれるような緑色、例えるならば妖艶なエメラルド。
「また、この目覚め方かよ」
春の暖かい日差しが、俺の顔面に降り注いでくる。
冬はまだまだ冷たくて、夏は暑すぎる日差しだが、春ならば丁度いい。
そんな暖かい日差しが、爆睡していた俺を、ゆっくりと気分良く目覚めさせてくれた。……そう信じたい。
ずっと前から、夢を見る。全く同じ夢だ。その詳細はさっき述べた通り。
何だかいきなり目が開かなくなって、底深い闇の中に漂う感覚の中、いつの間にか目の前に彼が立っているのだ。
かれはずっと憎しみを湛えて、泣いて、訴えている。俺がこの世に生を受けてからずっとだ。
ずっと前とは、最初から、という事。昨日今日は勿論、数ヶ月前に始まったとかいう話ではない。
でも、この夢には引っかかる点がいくつかある。彼からは確かに憎しみが伝わってくる。
何を奪ってしまったのかは分からないが、俺が彼の何かを取ってしまったらしい。
でも、その憎悪の感情の一切が、俺には届いていないのだ。
矛先が違うというか、俺に対して怒ってるんじゃなくて、頼みこんでいるみたいな。
自分を恨んで、後悔しているみたいな。
その夢の中で何が起きているのかは俺にもなんとなく分かるんだけど、それを人に伝えるのはどうにも難しい。
事実、今現在まともな説明が出来ていない。昔、兄に伝えようとして無理だった。
お祓いでもしてもらったら、とか何か強い能力者に呪われてるんじゃねえのとか、色々言われたが、結局何にもならなかった。
あの夢は別に俺に害をもたらすことは無い。だから、誰にも言わずに自分の中だけで抑えておける。
でも、気味が悪くて仕方が無い。
何だか彼は俺のことを分かり切ってる風にしていて、本当に強力な能力者みたいで。
そういう、彼とは近づきたくないという畏怖の念を感じながらも、彼が誰なのか知りたいという好奇心を抱えていた。
でも、その正体を知る者はおそらくいないんだと思う。兄さん以外には。
兄さんは、何か都合が悪いと答えを曖昧にして、はぐらかす。
都合さえ悪くなければ、もっと親身に相談に乗ってくれる。
だから、翡翠の目の少年を、兄さんなら知っているはずなんだ。
だけど俺は兄さんには訊こうとしない。
だって、あの兄さんが触れようとしないってことは、それこそ本当に不味いんだろうから。
俺は兄さん以外の人間を中々信用しようとはしない。人を信じたくても、中々信じられないのだ。
俺が心を許しているのは、たった三人だ。兄さんと、アルトと、恭子。
呆然としながら、ジャージに着替えようとする俺の部屋のドアを、誰かがノックした。
向こう側にいる人が、俺の名前を呼ぶ。その声は、父でも母でもなく、兄さんだと俺は確信する。
適当に返事をすると、ドアノブを捻って彼は部屋の中に入ってきた。
「起きたのか。着換えろよ、早く」
「分かってるよ。今日はアルトと三人で出かけるからね」
クローゼットを開けると、いつも着ているジャージがしっかりとかかっていた。
ポリエステル百パーセント、黒字にオレンジのラインが入った、普通に運動に使えるジャージ。
サッカー部に所属していた中学時代に買ってもらい、高校でも陸上部で使っている。
そして、机の中から金庫型の貯金箱を取りだした。
真っ黒で、見た目からして強固な貯金箱で、五トンまでの圧力ならば耐久出来る。
普通の人間の腕力で壊すのは到底不可能。
鍵で開けられるのだが、鍵を無くしてしまったのでずっと開くことができずにいる。
開けるための方法はたった一つ残っているのだが、それをするともう二度と貯金箱として機能しなくなるので、今日まで避けていた。
だが、兄さんとアルトと遊ぶのだから、溜めた金は使っておこうということで、取りだした。
いくら五トンでも耐久出来るとはいえ、兄さんが壊せないはずがない。
「兄さん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「どうしたんだ爽、言ってみろ」
「この貯金箱を壊して。中身は壊さずに」
頭を軽く下げてから、両手でそれを兄さんに手渡す。
まあ良いけどと、表情を崩さずに兄さんは受け取る。
そして、手を、手刀を振り下ろすような形にして、能力を発動させた。
蜂の羽音のような重低音を鳴らし、光の刃のようなものがその手刀を覆う。
本来この力は、槍状にまで長くなるのだが、平面的に切断するならばコンパクトにする方が適している。
「“総てを貫く大槍<グングニル弐型>”」
地面と水平に、手刀を一閃する。金庫の上部を斬り裂き、底面を片方失った立方体になる。
当然、上から中の貯金は取り出せる。鍵をなくして早一か月、ようやく開けることができた。
とりあえずお払い箱となった金庫から、中身を取りだして財布に入れて、それそのものは捨てる。
小銭だらけなのでやたらと財布が重たくなってしまったが、気にしてはいけない。
鞄に入れれば何とかなるだろう。
能力には、固有の名前がある。それは能力者が決めたものではなく、能力自身が自分の名前を決めるのだ。
能力とは物ではなく、意志を持った現象である。
誰かの意思に沿って、彼、彼女の思う通りにその力を振るいたいという意志を持った現象を能力という、だとか科学者は言ってる。
細かい訳は分からないが、大概の一般人は能力には意思があって、それが彼らの名前を決めているって思ってる。
概要は変わらないから大丈夫だって、テレビで言ってた。
そして兄さん、桐谷 渡の能力の由来となったのは、北欧神話の神様の持つ、必中の槍、グングニル。
本来のその槍の性能は必ず当たる、貫くということ、そして当たった後は手元に戻ってくる、そういうことだ。
そこから先は感受性の拡大だが、必ず貫くということは、最強の攻撃力を誇る訳だ。
兄さんは、光の槍、もしくは刃を錬成することで『どんなものをも貫くことができる』。
故事の矛盾に出てくる矛そっくりだ。
盾となる能力もこの世には存在するらしいが、どちらが優れているか試した者は未だに居ない。
「もう大体着替え終わったな。朝食はどうする?」
「どっかで買ってくよ。父さんも母さんもまだ寝てるだろ?」
無言で頷く彼を見て、休日だからといって寝続ける両親に俺は嘆息する。
椅子にかかっているポーチを手に取り、中に財布を入れる。
準備万端となった俺は机の上に置いてある腕時計を手に取った。
能力を持たない者が外出する際に必ず持つように言われている腕時計だ。
能力によって、所持者の生命の危機が訪れると、自動的に能力を無効化する装置が付いている。
そんなものでもないと、犯罪に巻き込まれるかとおちおちして夜も眠れない。
部屋の電気を消して、ベッドを整えて兄さんと二人で部屋を出た。
まずは、向かいに住んでいるアルトの所に行こう。
靴箱から外出用のスニーカーを取りだし、ゆっくりと履く。
もうすでに兄さんは玄関のドアを開けて、外に立っている。
先にアルトを呼びに行ってくれと頼もうとしたが、その必要は無いとすぐに分かった。
なぜなら。アルト本人がすぐそこにいたのだから。
「爽兄、早く靴履いてよ、早く出かけようよ」
「分かってから、ちょっと待てって」
俺のことを爽兄と、親しみを込めて呼んできたのは、先程から何度か名前の出ているアルトだ。
本名で呼ぶならば、昼子 或人、日本人。
しかし、髪の毛は金髪だ。祖父がイギリス人らしく、その祖父の血を最も濃く受け継いでしまったようだ。
まあ、当然のごとくこの国では金髪よりも黒髪で生まれる人間の方が、圧倒的大部分を占めている。
勿論俺も黒髪で生まれ、維持してきた人間だ。今の時代髪の毛どころか、瞳の色だって、安全にコロコロと変えることだって可能だ。
人為十二年、四月七日、天気は良い。




