第二話 辺境の朝市にて
辺境の朝市は、都の社交界より正直だ。
石畳の代わりに踏み固めた土の道が、朝露でまだ湿っている。行き交う人々の格好も、都のような統一感はなく、思い思いの実用着ばかりだった。品の良し悪しがそのまま値のやり取りに直結する。誰の家の生まれかを聞かれることもない。ヴィオラが持参した薬草図鑑を頼りに調合した咳止めの煎じ薬は、三日のうちに宿の女主人の評判を呼んでいた。
「あんたの薬、よく効くって噂だよ」
宿の女主人が、朝の掃除の手を止めずに言う。ヴィオラは小さく頭を下げただけで、返事はしなかった。褒め言葉にどう応えればいいのか、いまだに分からない。
この土地に着いた日のことを、まだよく覚えている。馬車を降りたとき、迎えの者は誰もいなかった。荷物は鞄ひとつと、路銀の入った薄い包みだけ。それでも、誰かに詫びる必要のない到着というものが、これほど身軽なものだとは思わなかった。宿を紹介してくれたのは、たまたま通りかかった行商人だった。名も知らない相手の親切のほうが、六年間過ごした家族の親切より、よほど純粋に感じられる。損得も義理も絡まない、ただの通りすがりの好意だった。
最初の三日は、誰も彼女の薬に手を伸ばさなかった。見慣れない女の売る薬包を、信用する理由がない。それでも、値を下げることはしなかった。安さで売る薬は、安さでしか信用されない。四日目、宿の女主人が咳の止まらない孫のために、半信半疑で買い求めたのが最初だった。
宿の一角を借りて商いを始めてから、まだ十日と経っていない。荷は薬草図鑑一冊と、辺境の土地で採れる薬草の知識だけだった。それでも、公爵家の帳簿をつけてきた手は、数字を扱うことを忘れていない。仕入れと売り上げを毎晩つけ、余白には薬効の癖まで書き込んでいく。誰に見せるためでもなかった。
朝市の反対側では、麻布を商う年配の女が、値切ろうとする客と長々と押し問答をしていた。都の商家なら、体面を気にして早々に折れるところだ。ここではそうした駆け引きすら、誰も咎めない。ヴィオラは、その光景を横目に見ながら、自分の帳面を鞄に仕舞い直した。
商いを広げるには、開拓庁の許可がいる。宿の女主人に教えられた通り、ヴィオラは帳面を抱えて、街の外れにある庁舎へ向かった。木組みの簡素な建物で、公爵邸の応接間とはまるで違う。装飾らしい装飾もなく、机の上には未処理の書類が山になっている。壁には、開拓地の地図が一枚、画鋲だけで留められていた。
執務室で待っていたのは、その書類の山の向こうに座る男だった。開拓長官のレナート・ヴォルクだと、取次の者から告げられる。都育ちらしい整った顔立ちに、辺境の陽に焼けた肌が、どこか馴染んでいなかった。取次の者は、去り際に小さく肩をすくめてみせる。長官の機嫌を、まだ測りかねている顔つきだった。
「交易の許可を頂きたいのですが」
ヴィオラが差し出した帳面を、レナートは黙って受け取った。目を通す速さが、次第に遅くなっていく。仕入れの記録、売値の変動、季節ごとの薬草の生育まで、几帳面に書き込まれた頁を、彼は何度か戻って読み返した。指の動きが止まる頁が、一つ、また一つと増えていく。ヴィオラは、何も言わずに待った。急かす理由もなければ、急かされて困る帳面でもない。
「この、乾燥薬草の目減り率まで記録がありますが」
「湿気の多い季節は、仕入れの見た目より実際の量が減ります。それを見込んでおかないと、売値の見通しが狂いますので」
レナートは、しばらく無言のまま頁をめくり続けた。取次の者が扉の隙間からちらりと様子をうかがい、すぐに顔を引っ込める。長官がここまで長く一つの書類に向き合うのは、珍しいことらしかった。
「これを一人で? ランメルト殿、これは公爵家にとって相当な損失ですよ」
レナートの声には、疑いも世辞もなかった。ただ帳面の数字を見て、そのまま口にしただけのようだった。ヴィオラは、その言い方に戸惑う。
「損失、とおっしゃいますと」
「これだけの仕事を一人でこなせる人間を、公爵家は手放したわけでしょう。私が家令なら、辞めさせません」
淡々とした口調だった。同情の色はどこにもない。ヴィオラは、しばらく返す言葉を持たなかった。六年間、この手で作ってきた帳簿は、公爵家の名で綴じられ、誰の目にも留まらなかった。褒められたことも、けなされたこともない。ただ、当然のように使われてきただけだった。
「以前も、同じように帳面をつけていらしたので」
レナートが、書類から顔を上げずに尋ねた。事情を探ろうとする響きはない。事実の確認としての問いだった。
「六年ほど」
それだけ答えた。詳しい事情まで話す気にはなれなかったが、レナートは頷いただけで、それ以上は聞かなかった。詮索する気配のなさが、逆に分かりやすい。
「都でも、似たようなことはありますよ」
帳面を閉じながら、レナートが何気ない調子でそう続ける。役職に就く前は、都のどこかの部署で書類仕事をしていたのだろうか。詳しくは語らず、それ以上は触れなかった。ヴィオラも、聞き返さなかった。互いに、まだ踏み込む段階ではない。
許可証の手続きは、思ったより早く終わった。印を押した書類を受け取り、ヴィオラが席を立つ。庁舎を出るとき、レナートが背に一言だけ添えた。
「次に来るときは、もう少し厚い帳面をお持ちください」
冗談とも本気ともつかない言い方だった。ヴィオラは、庁舎の階段を降りながら、その一言を何度か反芻する。
宿への帰り道、朝市はまだ賑わっていた。麻布の女は、先ほどの客と結局値を折り合わせたらしく、上機嫌で次の客を呼び込んでいる。ヴィオラは、その声を聞きながら、自分の足取りが、これまでよりわずかに軽いことに気がついた。荷物は増えていない。増えたのは、帳面の重さではなく、別のものだった。
宿に戻り、夕刻の帳面をつけながら、今日の出来事を思い返す。損失、という言葉の意味を、この六年で誰かに教わったことは一度もなかった。数字は数字として扱われ、その裏にある手間や判断は、誰にとっても見えないものだったらしい。ここでは、その見えないはずのものを、初対面の男があっさりと言い当てた。許可証を鞄にしまいながら、ヴィオラは、明日もこの帳面をつけ続けるだろうと思う。誰かに見せるためではなく、今度は自分自身のために。
損失、という言葉を、こんなにまっすぐ向けられたのは初めてだった。




