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離縁して半年、幸福すぎて振り返る時間がありません  作者: 九葉(くずは)


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第一話 見送りのない朝

帳簿の最後の欄に触れる指が、いつもより冷たい。


季節がら、書庫の空気はいつもこの時間帯に冷える。ヴィオラは素知らぬ顔で、羽根ペンを置いた。エッシェンバッハ公爵家に嫁いで六年、この書庫の温度も、義母カタリナの療養日課も、領地の収穫報告の書式も、体に染み込んでいる。棚には、季節ごとの薬包の使用量、収穫の増減、取引先への支払いの記録が並ぶ。どれも公爵家の名で記され、ヴィオラの名は表紙のどこにも出てこない。誰の目にも触れない仕事だ。それでよいと、これまでは思っていた。


窓の外では、庭師が生垣を整える鋏の音がしていた。いつもと変わらない朝の音だ。変わったのは、その音を聞きながら、今日はまだ何も書き終えていないという事実だけだった。


侍女のひとりが呼びに来たのは、朝食の膳を運ぶより早い時刻だった。応接間に入ると、夫のエドヴァルドと、義妹のイレーネが並んで座っている。二人の前の卓には、小さな宝石箱と、祖母の形見だという首飾りが置かれていた。


「お義姉様の戸棚から、見つかりましたの」


イレーネの声は湿っている。目元も赤い。差し出した両手は、ハンカチの端を握りしめて震えていた。震え方まで、よく練習された仕草に見える。ヴィオラは、その戸棚の鍵をイレーネ自身も持っていることを口にしかけて、やめた。言ったところで、この部屋の空気は動かない。


「戸棚の鍵は、私だけが持っているわけではございません」


一度だけ、そう告げた。声は乱れない。六年のあいだ、ヴィオラは領地の帳簿ひとつにも、証拠のない数字を載せたことはなかった。取引先の申告と実際の荷を、必ず二度照らし合わせてから記帳してきた。今、自分に向けられている疑いには、その半分の手間もかけられていない。数字ひとつに払ってきた注意を思えば、なおさらだった。ヴィオラは、それを口には出さなかった。


エドヴァルドは、その言葉のあいだ、ヴィオラの顔ではなく、卓上の宝石箱を見ていた。次に窓の外へ視線を移す。最後まで、ヴィオラの目を見ることはなかった。結婚したばかりの頃、彼は「お前を信じている」と言ったことがある。あの言葉が、今日のこの沈黙とどう繋がるのか、ヴィオラには分からなかった。


長い沈黙が落ちる。暖炉の薪が一度、小さく爆ぜた。イレーネはハンカチで目元を押さえる仕草をひとつ挟み、その合間に、ヴィオラを一度だけ見ている。目が合うと、すぐに逸らされた。エドヴァルドは指先で卓を軽く叩いていたが、その指を止める。


「王家への手前もある。イレーネの言葉を疑う理由がない以上、お前とは離縁し、辺境へ移ってもらう」


エドヴァルドの声は、静かだ。叱責の調子ではなく、決定事項を読み上げる調子だった。その平坦さのほうが、ヴィオラには効く。声を荒げられていたなら、まだ反論の隙があると錯覚できたかもしれない。


「承知いたしました。荷はどちらまで届けてよろしいでしょうか」


自分の声が、いつもと同じ高さで出たことに、ヴィオラ自身が驚いた。六年間、来客への受け答えをしてきた声そのままだった。


エドヴァルドは、その返事の速さに、わずかに視線を泳がせた。何かを言いかけて、結局は「手続きは事務官に任せる」とだけ告げ、席を立つ。疑惑を確かめる労よりも、体面を整える労のほうが、彼にとっては近い場所にあるらしい。扉が閉まる音は、思いのほか静かだった。


イレーネは、兄が部屋を出たあとも、しばらくハンカチを目元に当てたままだった。ヴィオラが立ち上がると、ようやく顔を上げ、「ごめんなさい」と小さく言う。誰に向けた言葉かは、最後まで分からなかった。宝石箱の蓋を、指先で静かに閉じただけだった。閉じる音だけが、思いのほか軽い。


部屋を出る前に、ヴィオラは一度だけ、カタリナの容態を尋ねようとした。だが、もうこの場に居合わせる人間の誰も、答える気配を見せていない。六年のあいだ毎朝欠かさなかった問いかけを、今日はどこにも向ける先がなかった。言葉を飲み込んで、扉に向かった。


自室に戻ってから、荷造りに取りかかった。呼べば侍女が来るのだろうが、呼ぶ気になれない。


衣装箪笥を開け、季節ごとに誂えた夜会服が並んでいるのを一通り眺めた。どれも、この家の体面のために誂えた品だ。青い夜会服は、隣国の使者を迎えた夜に着たものだった。あのときも、褒められたのは装いだけで、装いを整えた者の名は誰にも尋ねられない。荷物にするには、どれも似合わない気がした。


棚の奥から、深緑の質素なショールを取り出す。嫁いできた年に、まだ何も持たない身のまま選んだ布地だった。着る機会もなく仕舞い込んでいたが、道中には、こちらのほうが役に立つ。


化粧台の抽斗には、婚礼の日に贈られた指輪が入っている。手に取り、しばらく眺めてから、抽斗に戻した。持ち出す理由が見当たらない。


文机の抽斗には、カタリナの薬の量と服用の時刻を記した紙束がある。誰が見ても分かるようにと、字を大きく書き直したものだった。持っていくものではない。抽斗の奥に、そのまま滑り込ませておく。


書庫に寄った。六年分の家政の帳簿が並ぶ棚には触れず、その隣にある、母カタリナの見舞いのために読み続けてきた古い薬草図鑑だけを鞄に収めた。誰にも見せたことのない本だ。義母の症状に合わせた調合を、この本の余白に何年もかけて書き込んできたのは、自分だけだった。


家政の帳簿には、指を伸ばしかけて、止めた。持っていく理由が見当たらない。あれは公爵家のものであって、自分のものではない。少なくとも、この家はそう扱ってきた。机の上に、そのまま残した。表紙の背に、自分の指の跡だけが薄く残っている。


支度を終え、廊下に出た。使用人たちの気配は扉の向こうにあるのに、誰も顔を出さない。カタリナの部屋の前を通ったとき、扉は閉じたままだった。中からは物音ひとつしない。具合が悪いのか、それとも顔を合わせる勇気がないのか。どちらであっても、もう確かめる立場にはなかった。


階段の踊り場には、結婚した年に描かせた肖像画が掛けられている。並んで描かれた二人の顔を、ヴィオラは今日はじめて、他人のもののように眺めた。絵の中の自分は、まだこの家に望みを持っていた顔をしている。


厨房の脇を通り過ぎるとき、若い下働きの娘と目が合った。娘は何か言いたそうに口を開きかけ、年上の女中に袖を引かれて視線を落とす。ヴィオラは、それ以上足を止めなかった。


馬車の前に立ったとき、見送りは一人もいない。エドヴァルドは執務室にこもったきりで、イレーネの姿もなかった。庭師が一人、遠くの生垣のそばでこちらを見ていたが、目が合うと、すぐに手元の鋏に視線を戻す。


御者に告げられた行き先は、王国北方の辺境だった。地図の端に、ようやく名の載る程度の小さな土地だ。手渡された路銀の包みは、思いのほか薄い。差配したのはイレーネだと、御者が一言だけ添えた。辺境と聞いて、御者の顔にわずかな同情がよぎるのを、ヴィオラは見なかったことにした。都の人間にとって、そこは左遷か厄介払いの行き先でしかない。土地の名すら、社交界の話題にのぼることは滅多になかった。それでも、行き先があるだけましだった。


馬車が動き出しても、ヴィオラはしばらく窓の外を見ていた。屋敷の門が、少しずつ遠くなっていく。庭の隅、いつも義母の薬草を摘んでいた花壇の前を、馬車が通り過ぎる。涙は出なかった。泣くべき場面だという自覚はあったが、体のほうが、それに応じてくれない。


轍の音が単調に響くだけの道のりだった。窓の外の景色は、見慣れた並木からやがて知らない野へと変わっていく。辺境へは、季節ひとつ分はかかるという。着いた先で何を求められるかも、まだ分からない。それでも、行く先の分からない不安より、戻れない事実のほうが、今は幾分か扱いやすかった。少なくとも、迷う余地がない分だけ、心は静かでいられる。


膝の上の鞄には、古い薬草図鑑が一冊だけ収まっている。それだけが、六年間この家に差し出してきたものの中で、唯一持ち出せた形だった。帳簿は残し、婚礼の指輪も抽斗の中に置いてきた。首飾りが戸棚へ持ち込まれた経緯は、もう自分には関わりがない。それを確かめる権利も、今日から失った。


門が見えなくなったところで、ヴィオラは膝の上の図鑑にそっと手を置いた。指先の冷たさは、まだ戻らない。


ああ、そうだった。私が差し出していたものは、誰の目にも留まっていなかったのですね。

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