EP 3
ルナミス帝国の裏路地にそびえ立つ、黒蛇商会の豪奢な洋館。
その最深部に位置する、分厚い鋼鉄の扉で閉ざされた地下金庫室。
「ヒヒッ……ゲヘヘッ! たまらねぇなぁ。明日の夜には、あの極上の娘っこ(マリア)が俺のベッドで泣き叫ぶってわけだ」
最高級の葉巻をふかしながら、商会主のザッパは下卑た笑い声を上げていた。
机の上には、山のような金貨と、行商人から巻き上げた『金貨百枚の借金証書』が置かれている。
「馬鹿な親父だぜ。銀貨十枚ぽっちの端金が、たった一ヶ月で金貨百枚に化けるなんて、契約書の裏の極小文字を読まねぇからいけねぇんだ。……まぁ、あの娘の極上ボディなら、アバロンのオークションで金貨五百枚には化けるがな!」
ワイングラスを傾け、ザッパは己の悪徳な才覚に酔いしれていた。
金庫室の外には、闘気使いの凄腕用心棒が十人も張り付いている。この密室は、皇帝の軍隊すら容易には破れない絶対の安全圏だ。
——そのはず、だった。
(スゥゥゥゥ……ッ)
突然、部屋の明かりが不自然に揺らいだ。
ザッパの足元の『影』が、まるで墨汁をこぼしたように、音もなく、急激に面積を広げていく。
「……あ? なんだ、この影は……?」
(ドクンッ!)
ザッパの心臓が、肋骨の裏側を強く叩いた。
生存本能が警鐘を鳴らす。
彼は反射的に椅子から転げ落ち、後ずさった。グラスが床に落ちて砕け散る。
「だ、誰か! おい、外の奴ら! 開けろ!」
叫ぼうとしたザッパの口を、床から伸びた『真っ黒な手』が物理的に塞いだ。
影丸だ。
さらに無数の影の触手が這い上がり、ザッパの四肢を鋼鉄の万力のように床へと縫い付ける。
「むぐっ!? がっ……!」
悲鳴すら上げられない密室。
絶対の安全圏は、一瞬にして逃げ場のない『棺桶』へと変貌した。
「……静かにしろ。夜の静寂が汚れる」
絶対零度の声が、金庫室に響き渡った。
濃密な影の沼から、ゆっくりと『それ』がせり上がってくる。
黒いコートを身に纏い、右手には漆黒の銃口剣を提げた死神——リアンだ。
「が、ぁ、お、ま、え……!」
ザッパは恐怖で白目を剥きかけながら、必死に喉を鳴らした。
「ああ、喋っていいぞ。ただし、大声を出せばその瞬間に首を落とす」
影丸の拘束が少しだけ緩む。
ザッパはぜえぜえと荒い息を吐きながら、必死に命乞いを始めた。
「ひっ、ひぃぃっ! あ、あんた何者だ!? か、金か!? 金ならそこにある! 全部持って行っていい! 私を見逃せば、毎月この倍の額を——」
「いらない」
リアンの声には、一片の感情も、慈悲もなかった。
「お前の隠し資産は、すでにうちの経理(力武)が全額差し押さえた。明日の朝には、帝国法務省の手でこの商会は完全に解体される手はずになっている」
「なっ……!? ば、馬鹿な! 帝国のお偉方にはたっぷりと袖の下を——」
「あの泣いていた行商人の親父はな、娘の好きなクッキーを買うために、汗水流して銀貨十枚を借りたんだよ。その親心を食い物にする外道に、生きる資格はない」
(チャカッ)
冷酷な金属音が響き、銃口剣の切っ先が、ザッパの額にピタリと当てられた。
銃身に魔力が装填され、青白い光が漏れ出す。
「ま、待ってくれ! 頼む! 悪かった! 証書は返す! 娘にも手は出さない! だから、命だけは——!!」
ザッパの股間から、生温かい液体が広がる。
醜悪な悪党が、最後の最後に見せる無様な命乞い。
だが、リアンの指は引き金からミリ単位もぶれることはなかった。
「俺の店(ポポロ亭)は、こういうクズの注文(命乞い)は受け付けていない」
——『ゼロ・インパクト』。
(ボシュッ!!)
銃口から放たれた極大の魔力弾が、頭蓋骨を貫通することなく、ザッパの脳内だけで全エネルギーを解放した。
「あ……が……」
外傷はゼロ。しかし、中枢神経を完全に破壊されたザッパの巨体は、糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、二度と動かなくなった。
圧倒的な蹂躙。
完全なる密室暗殺。
「……喰丸、掃除だ」
リアンの足元の空間が割れ、巨大なワーム『喰丸』が現れる。
喰丸はザッパの死体を一口で丸呑みにし、床にこぼれたワインや失禁の跡すらも、綺麗に舐め取って消し去った。
これで、ザッパという人間は「莫大な負債を残して夜逃げした」という事実だけが残る。
リアンは机の上にあった『金貨百枚の借金証書』だけを拾い上げ、魔法ポーチに仕舞い込んだ。
残りの金貨は、力武の回収部隊が後で根こそぎ持っていくだろう。
「……よし。ミッションコンプリートだ」
リアンは銃口剣を収め、ふぅと短く息を吐いた。
血の匂い一つない、完璧な仕事。
「さてと。あの親父には、明日、匿名でこの証書を返してやるとするか。……それと」
リアンは、暗い金庫室から、翌朝の『美味い飯』へと意識を切り替える。
冷酷な暗殺者の顔から、心優しいポポロ亭のマスターの顔へ。
「徹夜仕事で腹が減ったな。明日の朝は……極上の卵を使った『黄金のオムライス』にしよう。キャルルたちが喜ぶ顔が目に浮かぶ」
リアンは影丸の広げた暗黒の空間へと、音もなく沈み込んでいった。
密室には、何事もなかったかのような静寂だけが残された。




