50話(懐かしい恩人)
その夜のことだった。
静まり返った宮中に、不意に音のようで音ではない何かが響いた。
呼ばれている。
それは声ではない。しかし確かに、魂に直接響く呼びかけだった。
李牧はゆっくりと目を開き、上を見つめた。
隣では、韓信も同じように天井を見つめていた。
「……来たな」
「ええ」
二人の間に、それ以上の言葉はいらなかった。
その時だった。すっと障子が開き、一人の影が見えた。
それは太后、薄姫。
しかしその姿の中には、すでに隠す必要のなくなった別の光が見えた。
「呼ばれたね」
その声に、韓信が肩をすくめた。
「やっぱりあんたもか」
李牧はふっと微笑んだ。
「……楊端和殿」
彼女もふっと笑った。
「もう隠す必要もないからな」
その瞬間、空気が変わった。
そこにいたのは、太后でありながら、かつて山河を駆けた『黄河の女王』の気配だった。
「行こうか」
楊端和がそう言った瞬間、景色が、音もなく変わった。
そして次の瞬間。三人は、どこでもない場所に立っていた。
空とも地とも違う光に満ちた空間。あらゆる音が消え、ただ静寂だけがある。
その時だった。
「よく戻りました」
神の声が、懐かしく響いた。
李牧と韓信は、ゆっくりと頭を下げる。
「……終わったんだな」
韓信がぽつりと呟く。
その言葉には、戦の終わりではなく、使命を果たした重みがあった。
楊端和は腕を組み、軽く笑った。
「ずいぶんと長い寄り道だったな、李牧殿」
「ですが、決して無駄ではありませんでした」
そして、少しだけ目を細めた。
「あのような王が、この世に存在するとは」
韓信も頷いた。
「ほんとだな」
珍しく、真剣な声だった。
「皆がああいう王なら、戦なんて起きねえだろうによ」
神は、首を振り答えた。
「それが叶わぬのが、人の世、人の業です」
短い言葉だが、どうしようもない事実だった。
「だからこそ、貴方たちが必要だったのです」
李牧と韓信は、顔を上げた。
「すべてを変えることはできずとも、血を一滴でも減らすことはできる。それが、今できる最善なのです」
楊端和が、小さく息を吐いた。
「……まったく、面倒な世の中だね」
しかし、その口元はどこか楽しげだった。
その時だった。
ふいに、遠くから声が聞こえてきた。
「……李牧」
李牧の身体が、ぴくりと止まった。
その声は、忘れるはずもない、恩人のものだった。
振り向くと、そこに立っていたのは、一人の年老いたかつての将。
彼の鋭い眼差し、無駄のない立ち姿。北の大地を知る者の気配。
「…… 劇辛殿」
李牧の声に、確かな敬意が込められていた。
劇辛。彼はかつて 趙の北側を守り続けた将。
匈奴との戦いにおいて何度となく国境を守り抜き、その戦術と思想は、後に李牧へと受け継がれた。
李牧にとってはそう、師であり、理想であり、越えるべき存在だった男。
劇辛は懐かしそうな笑顔を向けた。
「立派になったな」
李牧は、わずかに驚き、目を伏せた。
「あなたには到底及びません」
「いいや」
劇辛は首を振った。
「お前は、戦わずに国を守ったな。私が夢見た以上の景色を、お前は見せてくれた」
その言葉に、李牧の心がわずかに揺れた。
韓信が横から口を挟む。
「へえ、この人が李牧殿の原点か」
「原点かとは何ですか」
「いや、なんでもねえ。師匠だったな」
楊端和がくすりと笑った。
劇辛は、興味深そうに三人を見た。
「その様子だと……今度はどのような戦だったのだ?」
李牧は、ゆっくりとその言葉の意味を噛み締めた。
「はい。今度も、戦わずに済みました」
劇辛の声が興味を示した。
「ほう?」
李牧は、どこか嬉しそうに言った。
「民を守るために戦うのではなく、戦そのものを、減らそうとする王に仕えました。自らは贅沢をせず、民に負担をかけないそんな王でした」
韓信が横で笑う。
「変わってるだろ? 皇帝なのにボロ着てんだぜ」
「ほう……」
劇辛の目が細まる。
李牧は続けた。
「いつか劇辛殿が言っておられた『李牧よ、戦わずに勝つことが、兵にとっても民にとっても一番の慈悲だ。お前はその道を貫け』まさにその言葉を生涯をかけて貫く王でした」
その声には、深い敬意が込められていた。
「戦で勝つことだけが、守ることではない。それを、教えられました」
劇辛はしばらく黙っていた。そして、ふっと笑った。
「いい王に出会えたな」
「はい」
李牧は、迷いなく答えた。
別れ際、あの慈悲深い陛下はおっしゃったのです。
『貴方たちは十分に役目を果たした』
そう言って、私たちの背中を押してくださいました。そしてこうも、おっしゃいました。
『続きは後の者がやる。安心しなさい』
その言葉で、私はようやく、長きに及ぶ『己が国を背負う』という呪縛から解き放たれたのです。
陛下に仕えたあの日々は、私の魂にとって、何物にも代えがたい救いでした。
そう語る、李牧の顔は、かつて戦場で見せたものとは違う、穏やかなものだった。
劇辛はそんな李牧の姿に安心したのか、一人天へと登っていった。
そして、神の声が、再び響く。
「貴方たちの魂は、すでに十分に浄化されました。戦を知り、戦を止める道を知った。そしてその先に何があるのかも理解した。ゆえに」
光が、三人を包んだ。
「天界へ上がる資格を与えましょう」
韓信が、ぽつりと呟く。
「……やっとだな」
楊端和は笑った。
「長かったねぇ」
李牧は、静かに目を閉じた。
(これで、ようやく)
そう思った瞬間、ふと、一人の顔が浮かんだ。
あの若き天才 賈誼。
李牧は神に尋ねた。すると神は優しく微笑み答えてくれた。
「安心なさい。貴方が気に掛けていた 賈誼の魂も、今はこの先にいます。彼は、皇子を死なせてしまった自責の念を、天界の光の中で洗い流しました。……未練を残すことさえ忘れるほど自分を責めていましたが、今はもう、彼の魂はすっかり浄化されました」
「そうですか。良かった」
李牧の瞳に、安堵の光が浮かんだ。
光が、だんだんと強くなる。
やがて三人の姿は、静かに消えていった。
戦の時代を生きた者たちが、戦なき世を知り、
ようやく、使命を果たせた瞬間だった。
数多の命を背負い、戦場を駆けた者たちが、ようやくその重責を手放した。
天の光に消えゆく三人の後ろ姿は、何よりも軽やかだった。




