49話(楊端和の告白)
夜が静かに更けようとしていたその時。
風が、静かに吹き抜ける。
「なんだか、妙な静けさだな」
韓信が空を見上げながら言った。
「ええ。嵐の前のようでもあります」
二人の間に、しばし沈黙が落ちた。
やがて韓信が口を開いた。
「賈誼がいなくなってから、妙に考えるようになった」
「何を、です?」
「この国のことだ」
韓信は肩をすくめる。
「確かに今のこの国、民は潤っている。だが、危うい」
李牧は静かに頷いた。すると太后、薄姫が答えた。
「その通りだ。同感だよ」
しかしこの瞬間、太后の纏う雰囲気がいつもとは違っていた。
「それにその声は……」
李牧の目がわずかに細められる。
韓信も、何かを感じ取ったように眉を上げた。
薄姫は、ふっと笑った。
「やっと気づいたかい」
(その声。いや、その『響き』。いつもの太后様のものにしては、あまりに強く、あまりに潔い。……私の記憶にある、ただ一人の者と重なる)
「久しぶりだね、李牧殿。ああ、そっちの韓信は初対面か。噂は聞いているよ。神からね」
その瞬間。場の空気が変わった。
「……まさか」
韓信が呟く。
李牧は、ゆっくりと頭を下げた。
「黄河の女王、楊端和殿……」
薄姫。いや、その中にいる楊端和は、肩をすくめ微笑んだ。
「ようやくあたしの名を呼んでくれたね」
夜の静寂の中、異なる時代を駆け抜けた三つの魂は時空の壁を越え、今この瞬間、ようやく『戦友』として同じ場所に集った。
楊端和は、ゆっくりと歩み寄り、照れくさそうに言う。
「ずっと言う機会を探していたんだがね。なかなか上手く都合がつかなくてさ。それに器を借りてる身だからね。好き勝手もできないのさ
韓信が苦笑した。
「いきなりお出ましになって呼び捨てかよ。ま、あの『黄河の女王』相手じゃ、文句は言えねえけどな。それにしても都合、ね、あんたほどの人間でも、器に縛られるってわけか」
「ま、そういうこと。でもさ、自由に動けない分、見えるものも増えるんだよ」
そして、ふっと真顔になる。
「二人に話しておくべきことがある」
その一言で、場が引き締まった。
「まず、あたしのことだ」
楊端和が語り出した。
「アルメリアの時代、あたしは、水霊の女王レイヴァとして生きていた」
李牧は急に笑顔になった。
「やはり、あの時の……それにしても『黄河の女王』が『水霊の女王』ですか? 随分と川に縁があるんですね」
楊端和も苦笑しながら返した。
「仕方ないだろう? 神がそうしたんだ。そしてその後、天界に上がったんだ」
韓信が口を挟んだ。
「じゃあ、俺の時代は?」
「器がなかったんだよ」
あっさりと答え、笑った。
「だから上から見てたよ。あんたが処刑されるところもね」
韓信が一瞬だけ顔をしかめ、そして苦笑した。
「趣味が悪いな」
「あの時はさ、いきなりで、選べる立場じゃなかった。ただ、見届けることしかできなかったのさ」
楊端和は肩をすくめた。
「それから信長様の時代。あの時は濃姫の中にいたんだ」
李牧の目がわずかに見開かれた。
「やはり……」
「あんたたちの近くにいるようにって、神の計らいとあたしの意思さ」
そして、今。
「この時代では、太后薄姫の中にいるのさ」
僅かの沈黙が落ち、それを吹き消す様に風が通り抜けていく。
「なるほどな。これで全部繋がった」
韓信は腕を組んだ。
李牧は、楊端和と向き合い、一礼した。
「我らを導いてくださったのは、あなたでしたか」
「大げさだよ」
そう言って、楊端和は笑った。
「ただ見てただけさ。必要な時に、ほんの少し手を貸しただけだ」
そして、ふっと表情を変え、真剣な眼差しを向けた。
「だがさ、ここからが本題だ」
その声は、低く、妙に重く聞こえた。
「この器の持ち主、薄姫の記憶についてだ」
李牧と韓信は、真剣に耳を傾ける。
「陛下がまだ代王として代の国を治めていた頃の話だ」
楊端和はゆっくりと語り出した。
「その時、陛下は父、劉邦の正妃呂后の一族から、妻をあてがわれた」
韓信が眉をひそめる。
「あの呂后か。くそ! 俺の処刑を命じた女だ」
「そうさ。だからどう考えてもその妻は間者だろうね」
楊端和は淡々と言った。
「陛下は毎日、敵を抱いて眠るような日々……。そんなんじゃ、心が安らぐ暇なんてなかったはずだ。それでもさ、子を成したんだよ。四人もだ」
韓信が、ため息混じりに呟いた。
「自分の血を分けながら、心からは愛せない。かと言って、我が子であることに変わりはねえ。地獄だな、そいつは」
沈黙が落ちる中、それでも話は続く。しかし、その先を語る声は、更に重みを増した。
「その妻と四人の子供たち全員、死んでいる。表向きには病死とされているが……。巷じゃ、不穏な噂が消えないのさ。呂后一族を憎む反乱分子たちが、その血を引く者を根絶やしにするために、幼い子らまで手にかけたとな」
楊端和はハッと息を呑み、拳で手のひらを打った。
「そうだ! 思い出したよ。こっちの世界に来る前に神が教えてくれたんだ。臣下たちは再び呂一族が国を支配するのではないか、恐れていたとな」
韓信の目が、鋭く険しくなる。
「いくら呂后一族を恐れたからといって、まだ幼いガキどもの息根を止めたってのか。反吐が出るぜ」
「陛下は、その時まだ代王。都の争いから妻や子を遠ざける力を持っていなかった。……いや、あるいは。新しい皇帝として迎え入れられるための『条件』として、家族を見捨てるよう迫られたのかもしれない」
李牧が、痛みに耐えるように目を閉じる。
「なんと過酷な。民の安寧を願う王が、自らの家族の命を代償に、その座に就かされたというのですか」
楊端和はゆっくりと続けた。
「薄姫の記憶が頑なに拒むのは、その時の陛下の思いを、自分もまた共有してしまったからだろうね」
静寂に包まれた。
「今まで、器となった者の過去は、すべて共有できた。だが、この件だけは、違う。拒まれるんだ。何度触れようとしても、弾かれる。こんなことは初めてだ」
沈黙が落ちた。
「つまりそれは……」
李牧がゆっくりと聞く。
「よほど触れてはならぬ過去、ということですか」
「おそらくね」
楊端和は頷いた。
「絶対、知られたくない真実か」
きっぱりと言った。
「あの二人はその地獄を背負って逝くと決めている。なら、あたしたちがすべきことは、それを黙って見送ることだけだ」
「同感です」
韓信も、肩をすくめる。
「興味はあるがな。だが、そこまでだ」
再び、静けさが戻る。
風が、やさしく吹いた。
楊端和は、二人を見た。
「あんたたちも、やっとここまで来たな」
その声は、どこか感慨深かった。
「たぶん……もうすぐだよ」
李牧と韓信は、何も言わずに頷いた。二人はその意味を、理解していた。
そう、この世界での役目が、終わりに近づいていることを。
しかし。
韓信が、ふと空を見上げた。
「……結局、この国はどうなると思う? 俺たちがいなくなった後が気がかりだな」
「確かに、民は潤っている。だが、危ういままです」
李牧は、静かに目を閉じた。
「ええ。あの時と、何も変わってはいません」
そして、ゆっくりと続けた。
「外には匈奴という脅威があり、内には、まだ燻る火種がある。賈誼が言った通りこの国は今もなお、火の上に寝ているようなものです」
韓信が鼻で笑う。
「じゃあやっぱり、この危うさは続くってことか」
「はい」
李牧は否定しなかった。しかし、その目は言葉とは裏腹に穏やかだった。
「ですがそれでも、この国は簡単には崩れません」
「ほう? 何故そう言える?」
「なぜなら、この国にはあの方がいる」
李牧は、はっきりと言った。
すると一瞬の沈黙が落ちる。
そして、三人の脳裏に、同じ人物の姿が浮かんだ。
質素な衣を纏い、民を思い、争いを避け続けた皇帝。
楊端和が、ふっと笑った。
「なるほどね。危ういが、倒れはしない、か」
「はい」
李牧は頷く。
「この国は、力ではなく忍耐で支えられている。そしてその中心にいるのが、あの方です」
韓信が、肩をすくめた。
「まったく、変わった王だな。だが、嫌いじゃない」
風が吹き抜けた。
楊端和は、夜空を見上げた。
「人の世は、いつだって危ういものさ」
静かに、しかしどこか優しく言う。
「だからこそ、ああいう王が必要なんだろうね」
李牧は、深く頷いた。
「ええ。すべてを消し去ることはできない。ですが減らすことはできる」
韓信が、口元を歪める。
「戦を、か」
「はい」
李牧はしみじみ答えた。
「それが、我らがここで学んだことです」
やがて、三人は同時に空を見上げた。まるで、その先にあるものを見据えるように。
夜は、静かに更けていった。




