48話(思い出話)
ある夜。
宮廷の奥は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
その一角で、二人の男が並んでいた。
李牧と韓信。
二人は珍しく酒杯を手にしている。
韓信がぽつりと言う。
「……静かだな」
「ええ。賈誼が亡くなってから、どこか宮廷の空気が変わりました」
「まあな。奴は、いつも誰彼かまわず説教して歩いていたからな。いるだけで場が賑やかだった」
「しかし、そのせいで疎まれもしました」
李牧が呟く。
「正しいことを言う奴ほど、煙たがられるもんだ」
しばしの沈黙が流れた。
そして韓信が、ふと思い出したように言った。
「そういやよ」
「はい」
「いつだったか、陛下にしては珍しく前のめりになって賈誼の話を聞いてたな」
李牧が目を向ける。
「前のめりですか?」
「賈誼が戻って来てすぐの頃だ」
韓信は口元を歪めた。
「陛下がよ、死んだ後のことを聞きたくて賈誼を質問攻めにしていた時だ」
李牧は、すぐにその場面を思い出した。
「……あの時ですか」
「そうだ」
韓信は少し笑った。
「最初は普通に聞いてたんだがな、だんだん身を乗り出して最後には膝が触れそうなくらいまで近づいてたぞ」
李牧も、わずかに口元を緩めた。
「ええ、そうでしたね。まるで、子供のように」
すると突然背後から声がした。
「それで?」
振り向けば、太后、薄姫。その中には楊端和の魂が宿っている。
「何の話だい」
韓信が軽く頭を下げた。
「ちょうどいいところだ。陛下の珍しい顔の話だよ」
太后が興味深そうに笑う。
「ほう?」
李牧が先程からの話を説明する。
「陛下は賈誼に、死後や鬼神のことをお尋ねになりました。それも、かなり熱心に」
太后が目を細める。
「らしくないねぇ」
「ええ。ですが、その時の賈誼の答えが……」
韓信が横から口を挟んだ。
「痛快だったんだよ」
「『まだ生きている者のことすら分かっていないのに、どうして死者のことを問うのですか』」
李牧がその言葉を代わりに話した。
太后が、ふっと笑った。
「なるほど。それはもっともな答えだ。しかし、だからこそ、嫌われる」
太后は淡々と言った。
「耳に痛い言葉は、いつの世でも歓迎されないものさ」
しばしの沈黙。三人はそれぞれ物思いに耽った。
李牧は、その時の光景を思い出していた。
身を乗り出し、膝が触れそうなほど賈誼に詰め寄っていた皇帝の姿。
あれほどまでに死後の世界を知りたがっていた陛下。
それでも。
李牧と韓信は、気づいていた。
あの方は、一度として自分たちにそれを問うたことがない。本当なら私たちにこそ聞きたかったはずなのに。そう、その気になれば、いくらでも聞けたはずだ。
それでも、問わなかった。
(おそらく、陛下は気づいておられる。我々がただの……)
その先の言葉は言わなかった。李牧は知っていた。
(それでも、問わぬのだ)
韓信が笑った。
「……あの王らしいな。知ろうとすれば、知ることができる。それでも知ろうとはしない。いいや聞いてこない」
韓信は言った。
「それこそがあの人の強さだ」
それ以上はもう、誰もその話には触れなかった。
やがて。
韓信が鼻で笑う。
「それに比べりゃよ、ずいぶん違うもんだ」
太后がちらりと見る。
「誰と比べてるんだい?」
韓信は太后を見た。
「秦の始皇帝だ。あの男は不老不死を求めていたらしい。なんでもずいぶんと術師に騙され続けたと聞いたぞ」
そして、語り出した。
「始皇帝はよ、自分が死んだ後のために、あれだけのもんを作らせた。何でも七〇万もの人を使い、おまけに
兵馬俑(皇帝を守るための実物大の軍隊)八千体を作らせ、最後は秘密が漏れるのを恐れ、工事に関わった者たちを生き埋めにしたらしいぞ」
そして溜息をついた。
「宮殿だの兵だの……あの世でも王でいようとしたとはな」
李牧は静かに言った。
「始皇帝は死してなお『皇帝』という形に執着したんですね」
李牧はふと遠い目をした。
「しかし、この国の皇帝は、民に迷惑をかけたくないと願い、自分の葬式に大きなお金を使うことを禁止した。立派な墓はいらない、小さな石の山で十分だという遺言を残している」
実際、陛下はたびたび宮殿の修繕すら控えさせ、倹約を徹底させていた。
民の負担になることを何よりも嫌ったのだ。
韓信が、ふっと笑った。
「そう言えば、賈誼が陛下に呼び戻された時に嘆いていたな。『鬼神のことを問うて、民のことを問わず』って。陛下は唯一、賈誼だけには一人の人間らしさを見せていたんだな」
「ええ、あの言葉は、賈誼の嘆きであると同時に、陛下の弱さでもありました。陛下は本来、民のことを第一に考える御方です。しかし、賈誼を前にした時だけは違った」
「そうだったな。はっは! 賈誼の奴、陛下に会ったら真っ先に民を救う策を聞いてもらえると期待してたのにまさか、死んだ後はどうなるのか? だもんな」
「死後のこと、鬼神のこと、つまり人としての不安や興味を、隠さずにぶつけてしまわれたのです。それほどまでに、賈誼を信頼していたということなのでしょう」
しかし、その賈誼は、志を尽くす前に世を去った。
それが陛下にとって、どれほどの損失であったか。
太后は、静かに聞いていた。
韓信が笑う。
「陛下は俺たちの前では、死んだ後のことなんざ、どうでもいいって顔してたのにな」
「だからこそ、あの時だけは違ったのでしょう」
李牧がぽつりと言った。
風が、吹いた。
太后が呟く。
「陛下にとって賈誼は唯一無二の戦友だったのかもしれないな」
それは薄姫ではなく楊端和の言葉だった。
その時、李牧は、遠くを見つめていた。
賈誼の言葉は時に鋭すぎましたが、その根底にあったのは、この国への、そして陛下への純粋すぎる愛でした。
(若き天才賈誼、あなたの言葉、そして書は確かにこの国に残っています。それは間違いなくあなたの生きた証です)
彼の言葉は時代さえ、追い越していた。
だからこそ、今ではなく『未来』に届くに違いない。
夜は、静かに更けようとしていた。




