51話(エピローグ)
まばゆい光の中で、李牧と韓信、そして楊端和の三人は、並んで立っていた。
もう、誰の器でもないし、肉体という枷もない。ただ、それぞれの魂として。
静寂が満ちている。ここには風も、音もない。
ただ穏やかな光だけが、どこまでも広がっていた。
「……妙だな」
韓信がぽつりと呟く。
「戦がないというのは、こうも静かなものか」
楊端和が肩をすくめた。
「あたしは嫌いじゃないけどね。少し物足りないだけさ。だからさ、そんな時は神に頼んで下界へと送ってもらうのさ」
李牧は、わずかに微笑んだ。
「ええ。ですが、この静けさがどれほど尊いものか我々は知っています。ですからそう簡単に下界へ行きたいとは言いにくい」
三人は和やかな空気に包まれる。
そして、楊端和が、ふと口にした。
「確かにさ、天界にいる者が下界へ行くには器がいるしな。あたしの時も神は結構、大変そうにしてたな」
そう言いながら笑顔を見せた。
「それよりさ、秦の始皇帝の魂は、ここへは来ていないようだな。まあ、この天界も広いからな」
韓信が吹き出した。
「ふん、あの男なら今頃、土の人形(兵馬俑)に号令でもかけて、地獄の軍隊ごっこでもさせているんじゃないのか?」
「ちょっと韓信、仮にもあたしが仕えていた皇帝だよ」
そう言いながら楊端和も笑っている。
李牧だけは真面目な顔で言う。
「あるいは、まだ執着の中にあるのかもしれません」
ちょうどその時、空間に、聞き覚えのある声が響いた。
「どうですかな、ここは」
三人は顔を上げた。
そこにいたのは神だった。
「貴方たちは、使命を果たし、その先になにがあるのかも見極めました」
その声は、静かだが、しかし確かな重みを持っていた。
「戦をなくすことはできなかった。ですが、確かに減らすことはできました。そしてこちらに戻って来てから貴方たちが言った言葉、これが正しく見極めた結果なのです」
「はい。後に文帝と呼ばれる漢の皇帝劉恒様。あのお方に出会って多くを学びました。なんといっても勝者が敗者を裁くのではなく勝者が敗者を許し、共生する。そして何より、私の知略が殺し合う戦ではなく、戦わずして勝つために活かされた。あのお方こそ、私が生涯をかけて探し求めていた、真に仕えるべき主君なのです」
「最後に辿り着けましたね。しかしまた、そこに行き着くまでに出会った人々からも貴方たちは多くを学びました」
李牧の脳裏に、数々の光景が浮かぶ。
アザニールでの若き王ソマリオ。そしてザイール将軍。水霊の民の女王レイヴァ。
項羽と劉邦。それに隣にいる韓信。
織田信長や濃姫。
匈奴との駆け引き。皇女の覚悟。陛下の質素な衣。それに賈誼の言葉。
韓信もまた、目を細めていた。
「……妙なものだな」
「何がだ?」
楊端和が不思議そうに見る。
「俺は戦で名を上げた男だ。それなのに今は、戦わずに済んだ命の方がずっと重く感じる」
李牧も続けた。
「私は、一人の王の存在が、数万の軍勢よりも多くの命を救うのだとこの目で見届けました」
そして、願いを込めて言う。
「あのようなお方が後の世にも現れてくれることを、願うばかりです」
神は、静かに首を振った。
「たとえそのような王が現れたとしても、平和が長く続くことはありません。人の心には、欲と恐れが常にある。だからこそ、戦はなくならないのです。人の世とは、悲しいことですがそういうものなのですよ」
李牧は、静かに目を伏せた。
「それでも、そのような王のもとに生きられた者たちは、幸せでした」
韓信が、肩をすくめて笑った。
「そりゃあ、相当運のいい連中だな。そんな王、そうそう当たるもんじゃねえ」
神は、静かに微笑んだ。
「……そのような王の時代に生まれ落ちる者は、前世で徳を積んだ魂なのでしょうな」
韓信が、わずかに目を見開く。
「……そういうことかよ」
「だからこそ、人の世は、魂の修行の場なのです」
三人は、黙って耳を傾ける。
「争いも、迷いも、苦しみもすべては魂を磨くためにあります」
光が、わずかに揺らめいた。
「貴方たちは、そこで使命を果たしながら、多くを学びました」
楊端和が笑う。
「ずいぶんと骨の折れることもあったけどね」
韓信も肩をすくめた。
「だが、悪くなかった。皇帝みたいな男と出会えたからな」
李牧は、静かに頷いた。
「ええ。陛下は、まさに唯一無二の存在です」
「それを言うなら俺だってかつては国士無双と呼ばれた男だぜ」
「韓信殿。それは『似て非なるもの』というものです」
そう李牧が言うと、周りは大きな笑いに包まれた。
しばらくしてから神が言う。
「そんな貴方たちの魂は、すでに清められています」
そして、優しく言葉を添えた。
「ですがそれは終わりではありません」
三人の視線が、神に向く。
「この天界でしばし休みなさい。そして再び、別の時代、別の誰かとして生まれ変わるのです」
楊端和が目を細める。
「生まれ変わる? 転生ではないのかい? それにまた修行、なのか。なんだこの姿は年を取らないから気に入っているのに」
「ええ」
神は微笑んだ。
「誰かの器を借りる転生ではなく、一人の新しい人として生き、また学び直すのです」
韓信が笑った。
「面倒くさそうだな」
李牧が、笑顔で言葉を継いだ。
「ですがそれでも、行く価値はあります。行けるなら、私は何度でも、その世に向かいましょう」
楊端和が笑う。
「付き合うよ。退屈しのぎにはちょうどいい。それにさ、まだ李牧殿との勝負が残っているじゃないか。今はこうして魂の身だから、手合わせもできないが」
李牧は苦笑した。
「まだ、覚えていたんですか?」
「当たり前じゃないか。今はそれしか楽しみがないんだ」
「贅沢ですよ、こんな平和なところにいて」
「だからさ」
笑いながら三人の視線が、わずかに下へ向く。
「気持ちはわかるぜ」
韓信が答えた。
そして下の世界、遠く人の世へ三人の気持ちが馳せた。
そこには戦があり、争いがある。しかし同時にそれを止めようとする者たちがいる世界。
李牧は、確かに思う。いつだって人は争う。
だが同時に、それを止めようとする者も、必ず現れるのだ。
私は何度生まれ変わったとしてもそれを止める側の者でありたい。
神が言う。
「二千年以上先の世界でさえ、人はなお、争い続けています。武器や戦い方ばかりが進歩して、人の心はまったく何も学ばない。人とは実に愚かな生き物です」
神はため息を漏らしながら続ける。
「人は、平和を守るためと言いながら、さらに強い武器を求める。やがてそれは、一瞬で多くの命を奪い、街さえ消し去る兵器を生む。これほど皮肉なことはありません」
そして、三人を同時に見つめる。
「だからこそ、あなた方のような存在が必要なのです。いずれまた、修行の世界へと戻る時が来ます。その時こそ、今回の経験が真に試されるでしょう」
まばゆい光が、三人を包み込む。それは決して終わりではない。
次なる始まりへの、尊き導きだった。
韓信が、ふっと笑って言った。
「俺はさ、どうせ次に生まれ変わるなら、あの王の時代がいいな」
「韓信、あんなに戦好きだったのに、ずいぶん変わったものだな」
「楊端和、あんたにだけは言われたくないな」
すると神は、静かに微笑んだ。
「その願いを叶えるには、もう少し修行が必要ですな」
三人は顔を見合わせ、思わず笑った。
その笑みは、新しい命の始まりを告げるような、優しい光に包まれていた。
その頃下界では。
天を仰いだ二人。皇帝、そしてその母、薄姫。
頭上にはただ、どこまでも続く青空がある。
「……今頃、李牧殿や韓信殿、そして母上の中にいたという、あの女性も。皆、無事に天へ辿り着いたでしょうか」
ふとこぼれた皇帝の言葉に、母は答える。
「ええ、きっと今頃はあちらの世界で、賈誼とも再会していることでしょう」
優しい声が、空へと溶けていく。
「そして今も、この空のどこからか、私たちを見守ってくれているはずですよ」
その言葉には、どこか確信めいたものがあった。
皇帝はわずかに微笑んだ。
「……そうですね」
もう二度と会うことは叶わない。
それでも……。
彼らの魂が、確かにこの世に存在し、その役目を果たしたことを二人は知っている。
空の彼方にいるはずの彼らへ、そっと思いを馳せながら、二人はしばらくのあいだ、何も言わずに天を仰ぎ続けた。
完




