5話(勝負)
濃い霧の中、川の中州が現れた。
周囲の木々は動きがなく、風一つない静けさだった。
その中でレイヴァは静かな笑みを浮かべた。
「さあ、李牧殿。平地の軍師がどれほどのものか、このあたしに見せてもらおうじゃないか」
彼女が腰の剣を抜いて軽く振ると、鋭い風が水面を震わせた。
一方、李牧は武器を抜かなかった。
「あれ、どうしたのさ? そのまま死にたいわけじゃないよね?」
「ええ。ですが、貴女に刃を向けるのは得策ではありません」
「なにそれ。舐めてんの?」
「まさか。貴女は強い。だからこそ、刀では勝てない」
「はぁん?」
それはレイヴァの眉が上がった瞬間だった。
李牧はまるで水面を滑るように後退した。
たった一歩。その一歩を見た水霊の戦士たちは、それだけで息を呑んだ。
「なっ!? まさか、あたしの踏み込みを読んだというのか?」
レイヴァの剣は、李牧が退いた場所へ向けて振るわれていた。
つまり、李牧は一瞬で彼女の動きを察していたことになる。
レイヴァは口角を上げた。
「へぇ、中々やるじゃないか。戦い慣れた動きだね」
「貴女ほどでは」
「謙遜するなよ。ますます興味が湧くじゃないか」
そして、レイヴァは矢継ぎ早に切り込んだ。
一撃ごとに脚さばきが速くなり、空気を裂く刃。
それでも李牧はほとんど動いていないように見えた。
それなのに、レイヴァの刃は一度として彼に当たらない。
李牧の動きは、水が流れるように静かで、刃はすべて横へと逸らされていく。
その姿は明らかに戦士のものではなく、戦場全体を冷静に見渡す軍師そのものだった。
レイヴァは嘲笑った。
「はー、そっちが本気で来ないなら、あたしが楽しめないだろ!」
岩を蹴ったレイヴァの姿が、霧の中に一瞬隠れた。
すると今度は、右、左、背後。
速度が跳ね上がり、まるで分身したかのように見える。
李牧は目を細めた。
その身のこなし、その獣じみた勘、そして戦いを楽しむかのような眼差し。
(似ている……)
一瞬、遠い記憶が脳裏に蘇る。
かつて別の世界で、水を統べていた女王。
荒々しくも誇り高く、戦いも得意だが、頭も切れる人物。彼女は皆から『黄河の女王』と呼ばれ、恐れられる存在だった。
敵対していた彼女には随分と手を焼かされたものだ。
(世界は違えど、民を率いる女王というものは、こうも似ているものなのですね。楊端和)
懐かしい名が頭をよぎった。
しかし李牧は、すぐにレイヴァを見た。
目の前にいるのは過去の幻ではない。
(確かに速いが……)
李牧は、レイヴァが必ず踏む岩の位置を先に見抜いていた。
次の瞬間。
「そこです」
李牧の声と同時に、レイヴァの足がほんの僅かに滑った。
「っ!? 罠……?」
いや、罠ではない。
李牧は戦いながら何度も後退し、その岩だけを踏まないように動いていた。
つまり錯覚を利用したのだ。
その岩は川の霧と水気を含み、黒く濡れて滑りやすくなっていた。
そして、レイヴァの動きが一瞬だけ鈍った。
その瞬間、李牧の手がそっと彼女の肩に触れた。
「勝負あり、ですね」
レイヴァは言葉を失い、驚いた表情で固まった。
刃を交えることもなく、血も流れていない。
ただ、完全に読まれていた。
それは戦士にとって最大の敗北。
そして最大の快感でもあった。
「あんた、変な男だね」
レイヴァは剣をくるりと回し、鞘に納めた。
悔しさではなく、楽しくて笑っている。
「力じゃ勝てない。でも頭じゃ、あたしを手玉に取った」
「戦いとは状況を制す者が勝者です。貴女は強い。だからこそ、剣で勝とうとは思いませんでした。いや、剣では勝てませんから」
「へぇ、ますます気に入ったよ、あんたのこと」
レイヴァは肩に触れられた感触を思い出しながら、愉快そうに笑った。
「こんなの初めてだ。あたしに触れた男なんて、全部、死んでる」
(それは、誉め言葉でいいのでしょうか)
李牧は微笑みを浮かべながら、冷や汗をかいていた。
「さあ、言いなよ」
レイヴァが一歩近づく。
その目はもう、獣の目でも戦士の目でもなかった。
「協力して欲しいって? あたしの負けだよ。あんたの軍に、水霊の民をつけてやる」
周囲の戦士たちがざわめき、驚愕の声を上げる。
水霊の民の女王が敗北を認め、従うなど前例がなかった。
「ありがとうございます、レイヴァ女王。その協力、どれほど心強いか」
「軍師、いや李牧殿。約束だよ」
彼女はすっと李牧の胸元に指を突きつけた。
「次は、あたしがあんたを倒す。だからその時まで、絶対に死ぬんじゃないよ?」
挑戦的で、どこか楽しげな笑み。
李牧は笑顔で頷いた。
「ええ。また勝負しましょう」
「ふっ、あんた、ほんと気に入ったよ」
(神が言っていた。『協力を願う者』が現れたら『貴女の采配』でいいから協力して欲しい。神の言う通りにしてやるよ)
楊端和は心の中で呟いていた。
こうして、水霊の女王レイヴァ(楊端和)は、李牧の最強の同盟者となった。
そしてこの協力関係こそが、やがてコザイル帝国の補給線を壊滅させることになる。




