45話(賈誼《かぎ》)
それから暫く経った頃。
匈奴へは、約束した通りの貢ぎ物が送り続けられた。
食糧、酒、絹。それ以上でも、それ以下でもない。皇帝は中行説の『もっと寄越せ、さもなくば攻め込むぞ』という執拗な揺さぶりには、決して乗らなかった。
ただ淡々と、関係を繋ぐための品だけが、匈奴へと運ばれていった。
そして月日は流れた。
長安の空は変わらず穏やかで、民の暮らしもまた、確実に豊かになっていった。
しかし、その裏では、不満は確実に積もっていた。
ある日。朝廷は、朝からどんよりとした重たい空気に包まれていた。
「陛下」
一人の官僚が進み出た。
「このままでよろしいのですか」
その声は、抑えてはいるが、明らかに苛立ちが感じられた。
「匈奴に貢ぎ続け、言われるがまま、これではまるで、我らが下に見られているようではありませんか」
別の者も声を上げた。
「民の税を減らしながら、匈奴へは財を貢ぐ。このようなことが、いつまで続くのか」
さらに声が増える。
「陛下は、あまりに」
一瞬、言葉をためらったが、我慢できずに吐き出した。
「弱腰過ぎます」
その言葉に一瞬、広間が静まり返った。誰もが息を呑んだ。
しかし、皇帝劉恒は、怒らなかった。
ただ黙ってその者を見ていた。
「続けよ」
その一言に、場の空気が緊張に包まれたが、官僚は意を決して言葉を発した。
「このままでは、いずれ匈奴はさらに要求を強めるでしょう。いずれ戦は避けられぬ。それならば今、備えるべきではないのですか!」
沈黙が、落ちた。
そして。
「官僚たちも皆、ずいぶんと溜まっていたようだな」
韓信が場違いな一言を言ったが、李牧は何も言わず、ただ様子を見ていた。
その時だった。
皇帝が、ゆっくりと口を開いた。
「そなたの言うことは、もっともだ」
ざわめきが起きたが、皇帝は続けた。
「だが、問おう」
その眼差しが、官僚たちを射抜く。
「戦とは、何だ」
誰も答えはしない。ただ黙って皇帝を見つめる。
皇帝は静かに言った。
「金と命を、最も多く消費するものだ。では、聞こう」
さらに続ける。
「匈奴へ送っている財と、戦をした場合に失う財と命。どちらが多い」
皆、誰も答えられない。
そんな中、李牧が一歩前に出た。
「戦になれば、農民は兵となり、畑は荒れ、収穫は減ります。若者は死に、村は疲弊し、税は上げざるを得なくなる」
韓信が肩をすくめた。
「その上、勝てる保証もないしな」
皇帝が頷く。
「だが今はどうだ」
皇帝がゆっくりと広間を見渡した。
「税は軽くした。免除も増やした。農業は盛んになり、民は増え、村は潤っている」
官僚たちの顔が、わずかに変わった。
「これが、答えだ。私は、すでに示している」
皇帝は迷いなく言い切った。
しかし、それでもなお、一人の若い官僚が進み出た。
「ですが!」
その目は、真っ直ぐだった。
「匈奴を放置するのは危険です。それに……匈奴だけではない、各地にいる皇族たちにも……この国は、火のついた薪の上で寝ているようなものだ」
強い言葉だった。すると広間がざわめいた。
「面白い奴だな」
韓信が笑った。
李牧はその男を見て思う。
(若い……だが、彼の考えていることは間違っていない)
皇帝は、その男をじっと見つめた。
「もっともだ。そなたの言う通り、この国は危うい。匈奴という火種とそして身内の……」
言い淀みながらもそのまま続けた。
「だからこそ、燃やさぬようにしているのだ。火に油を注げば、どうなる」
誰も答えない。
「戦とは、そういうものだ」
若い官僚は、言葉を失った。
だが、皇帝は、怒らずに聞いた。
「名は何という」
「……」
「申せ」
「…… 賈誼にございます」
(賈誼……いつだったか、呉公が『自分の教え子に、年少ながら非常に優れた才を持つ者がいる』と語っていた。その時に聞いた名だ)
皇帝は頷いた。
「よい。そのまま、続けよ」
賈誼は己の考えを端的に述べた。
そして、ざわめきが広がる中、皇帝は言った。
「言いたいことも言えぬなら、いつか限界が来て大爆発してしまう。だから、そうなる前に少しずつ言葉にして吐き出せ。それが結果的に国の平穏を守ることにもつながる」
李牧が、わずかに目を細めた。
(見事だ……)
「なるほど。これがガス抜きってやつか」
韓信が呟いた。
太后薄姫(楊端和)は、その様子を見ながら、心の中で笑った。
(うまいねぇ……。不満を溜めさせず、反乱にさせない。これもまた戦術か)
そしてその後、皇帝は朝廷での議論において、ベテランの学者たちが答えに詰まる中、 賈誼だけはスラスラと完璧な回答を提示したため、彼をいたく気に入り、わずか1年で『太中大夫』という高官にまで引き上げた。
それ以来、皇帝は政務の公的な相談はもちろん、私的な悩みについても、何かにつけ賈誼の意見を求めるようになっていく。




