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李牧(りぼく)転生する  作者: ヴァンドール


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44話(中行説の復讐)

 それから数日後。

 再び朝廷に、一通の文が届けられた。

 差出人はあの中行説(ちゅうこうえつ)


 その封を開ける前から、場の空気はどんよりと重くなっていた。


「今度は何を書いてきた」


 韓信が腕を組みながら言った。


 役人が震える手で文を広げ、そして、読み上げる。


「匈奴の単于は、漢より送られし皇女を大いに喜ばれた」


 そこまではよかった。しかし、続く言葉はあまりに露骨だった。


「今後の友好の証として、食糧、酒、絹をはじめとする貢ぎ物を、より一層充実させるべきである」


 広間がざわめく。


「また要求か」


 韓信が吐き捨てた。


「いや催促というべきか」


 さらに役人は続けて読んだ。


「漢の豊かさを示すことこそ、真の友好である。さもなくば」


 役人の声が止まった。


「読め」


 皇帝が促した。


「匈奴はその誠意が偽りであると見なさざるを得ない」


 するとその場が静まり返った。

 それは誰もが、その意味を理解していたからだ。


 韓信が鼻で笑う。


「遠回しだが、要するに『もっと寄越せ、さもなきゃどうなるか分かるな』ってことだ」


 そしてぽつりと漏らした言葉が強烈だった。


「早い話が『泥棒されたくなかったら、金を出せ』そういうことだ」


「ええ。そしてこれは間違いなく中行説の言葉でしょう」


 李牧は一点を見つめながら頷いた。


「単于ではなく、か」


 皇帝の目が細められる。


「はい。単于は、あの場ではむしろ現実的な方でした。ですが中行説は違っていました」


 李牧は言葉を選んだ。


「彼は、漢のためではなく、匈奴を優位にするために動いている」


「奴は完全に向こう側の人間だな。まるで匈奴の軍師気取りだ」


 韓信が肩をすくめた。


 その時だった。


「それは、当然でしょう」


 いきなり、聞き覚えのある声がした。

 いつもと同じ、いきなりの登場。


 太后薄姫。

 そしてその心の中では、楊端和の魂が、同調していた。


「自国に捨てられたと思っている男が憎悪という刃を向けてくるのは当たり前。ただ真に恐ろしいのはその男に軍師並みの知恵があるということ」


 韓信が頷いた。


「違いない」


 皇帝はしばらく文を見つめていた。


「ならば、どうする」


 その問いに、李牧は迷わなかった。


「何もなさらぬことです」


「何? またそれか」 


 韓信が少し、呆れ気味に言った。


「はい。彼は、こちらを挑発し、引きずり出そうとしています。だったら応じなければよい」


 皇帝は考え込む。


「しかし、何も返さねば、軽んじられるのではないか」


「いいえ」


 李牧は首を振った。


「必要な貢ぎ物は、約束した通りに送る。それ以上は何もしない。ただし、言葉では一切争わない」


 韓信が笑う。


「つまり、殴られても殴り返すな、か」


「ええ。少なくとも今は」


 その時だった。


 太后が、ふっと息をついた。


「……なるほどね」


 ゆっくりと前に出た。


「陛下」


「母上」


「この者の言う通りにしなさい」


 その声は、穏やかでありながら、妙な説得力を持っていた。


 そして太后は、文を手にした。


「この程度の言葉で揺らぐ国なら、とっくに滅んでなくなっていたはず」


 韓信が笑う。


「ずいぶんとはっきり言うな」


 太后は構わず続けた。


「李牧殿。これを見ておくれ」


 そう言って、皇帝の纏っている衣を軽く摘んだ。


 それは本来なら、決して皇帝が身につけるような布ではなかった。


 韓信が眉をひそめる。


「なんだ、当て布か? よく見るとつぎはぎだらけじゃないか。こんなものを皇帝が着てるのか」


 太后は、くすりと笑った。


「李牧殿、見てごらんよ。この『ボロ布』こそが、長安をひとつにまとめ上げるための最高の武器なのさ。これ一枚が民衆の心の奥底を射抜くのさ」


 李牧が目を細めた。そして、全てを理解した。


 太后は笑いながらも続けた。


「皇帝があれだけ質素なんだ。家臣が贅沢なんてできるわけがない。そんな中で派手な暮らしをしてみな、『どこからその金が出てる』って疑われるだけさ。家臣が贅沢しなけりゃ民の税は安くなる。そうなりゃ、民の暮らしも潤っていくものさ」


 そしてゆっくりと、広間を見渡した。


「で? もしそのことに家臣が不平を持って反乱を起こそうとしても、実際に戦うのは兵だ。その兵は民衆だ。ということは?」


 韓信が肩をすくめる。


「所詮、旗を挙げたところで、誰一人ついてこない。だから反乱なんて起きようがない、てわけか」


「その通り」


 太后は満足そうに笑った。


「そして陛下が『もったいない』と纏うその一着が、結果として国全体の盾にもなる。陛下はさ、それを狙ってやっているんじゃない、自然にできているのが一番の強みさね」


 その言葉は、重く、そして深かった。

 李牧が尊敬の眼差しで言う。


「実に見事です。要するに、この布一枚が盾であり、同時に矛にもなるのですね」


(私が生きた世界で、このような王に出会えていたなら……陛下。この李牧、今この時より、貴方の『盾』の一部となりましょう)


「さすがは軍師殿!」


 太后は満足そうに微笑んだ。


「それにさ、それを文句の一言も言わずに受け入れている妻の存在……。陛下がボロを纏うなら、自分も共に同じであろうとする。その献身こそが、この質素な政治を支えてるんだよ」


「え! 皇后もなのか? とんだ似合いの夫婦だぜ。贅沢もできねえ皇后なんて、俺なら御免被るがね」


 韓信はそう毒づきつつも、その瞳は眩しいものでも見るかのように、細められていた。


(なるほど。孤独な聖人ではなく、理解者に支えられた王。これこそが、この国の強さなのか)


 李牧は思わず頭を下げた。


 そして、太后はさらに満足そうに続けた。


「中行説は、それが分かってるんだよ。ずっとそれを見てきたからね」


 韓信が太后を見上げる。


「どういうことだ?」


「だからさ、必死なのさ」


 太后の目が、わずかに鋭くなった。


「『漢の品だけ奪え、心は染まるな』中行説はそう焦っているんだよ」


 韓信が鼻で笑った。


「なるほど。持久戦になれば、国が豊かになる漢の方が強くなるからな」


「そういうこと」


 太后は笑った。


「質素な皇帝と、復讐に燃える男の根比べってことさ」


 そして、楽しげに口元を歪めた。


「これ、どっちが勝つかねぇ?」


「贅沢をせず、じっと体力を蓄える『静』の強さ。

憎しみで匈奴を動かし、早く漢を壊したい『動』の焦り。時間は、我らの味方です」


 そう言って、李牧が、ふっと笑った。


 皇帝が、李牧を見た。


「……李牧殿」


「はい」


「そなたの策を採る」


 もうその声には、微塵の迷いもなかった。


「必要なものは送る。しかし、それ以上は与えぬ。そして言葉では争わぬ」


 李牧は頭を下げた。


「賢明なご判断です」


「退屈そうだが、まあいい」


 韓信が笑った。


 太后は満足そうに頷いた。


(いいねぇ……)


 その瞳の奥で、楊端和が笑う。


(刃を抜かずに勝つ戦か。あんたらしいよ、李牧殿。よかったな。初めて心から仕えたいと思える王に出会えたんじゃないのか)


 そして、ほんのわずかに目を細めた。


(しかし、相手は、ただの敵じゃないよ。恨みを抱いたまま知恵を持った男だ。扱いを誤れば、国ごと食われるよ)


 遠く見えない草原に、思いを馳せながら楊端和が一人呟いていた。


(李牧殿、あんたが最初に言っていた通り、この戦わぬ戦は、ずいぶん長くなりそうだな)



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