43話(帰還)
長い旅路を終え、一行は、再び漢の都へと戻っていた。
草原の乾いた風とは全く違う、穏やかな空気。
城壁の中に入った瞬間、張り詰めていた緊張がほんの少しだけ解けた。
しかし、その顔に安堵は戻っても、油断はなかった。
謁見の間。皇帝である劉恒は、戻ってきた二人を前にしていた。
「ご苦労であった。よく戻った」
その声には、確かな安堵が感じられた。
李牧と韓信。二人は頭を下げた。
「姫は無事、匈奴へ送り届けました。単于(王)との話も、ひとまずはまとまっております」
そう言って李牧は報告をした。
「少なくとも、すぐに戦になるということはない」
韓信が付け加えた。
皇帝はゆっくりと頷いた。
「そうか」
その一言には、どれほどの重みがあったか。
戦を避けられた。それだけで、この決断は間違いではなかった。
李牧は口を開いた。
「陛下」
その声には心配が潜んでいた。
「少々、厄介なことになっております」
皇帝の目が細められる。
「申せ」
「中行説のことにございます。道中でも違和感はありましたが、こちらに戻るなり、ある話を耳にしました」
わずかに間を置いてから話した。
「彼は出立の際、朝廷の役人たちの前でこう言い放ったそうです。『私を行かせるなら、必ず漢の災いとなってやる』と」
「なんだと」
場が凍りつき、皇帝の顔がしかめられた。
「随分とはっきり言い切ったな」
韓信は呆れた顔をした。
「彼はこの役目を、どうしてもやりたくないと断っていたようです。しかし、それは陛下には届いていなかった」
李牧の言葉に皇帝はわずかに目を伏せた。
「知らなかった」
その言葉に嘘はなかった。
その時だった。声が挟まる。
「人は、望まぬ地へ追いやられれば、恨みを持つもの」
その場にいた者たちが一斉に見た。
そこにいたのは、太后である薄姫。皇帝の母でもある。その穏やかな表情の奥で、別の魂が、状況を見極めていた。
(なるほどね……そういうことか)
かつて戦場を駆けた黄河の女王、楊端和の魂は、冷静に理解していた。
(これはかなり厄介だな。和平を結んだつもりでも、相手はそうは思っていない)
皇帝が口を開いた。
「では……どうするべきだ」
李牧は迷わず答えた。
「覚悟を決めるべきかと」
「ずいぶんあっさり言うな」
韓信が笑う。
「中行説は『匈奴に行かせるなら、必ず漢の災いとなってやる』と宣言して出立しました。ならばそれを前提に備えるしかありません」
皇帝は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
ーーーー
それから、しばらくしてやはり、動きはあった。朝廷に届けられた一通の文。
差出人は中行説。その内容は、あまりに露骨だった。
漢をバカにして、匈奴を持ち上げ、さりげなく漢の誇りを傷つけるような内容だった。
さらにそこには、別の意図も透けて見えていた。
漢の制度に詳しいからこそ気づける、間違いのない指摘だ。
そうすることにより『自分は漢を壊せる男だ』と証明していた。
韓信がそれを見て、鼻で笑った。
「……随分と好き勝手書いてくるな」
しかし、目は笑っていなかった。
「叩き返すか?」
「いえ」
李牧は即座に否定した。
「同じ土俵に立つ必要はありません。彼はすでに匈奴の人間となっています。ならばこれから先、彼はただの使者ではなくなるでしょう」
韓信が眉を上げる。
「ほう?」
「いずれ、匈奴は漢のやり方を学びます」
李牧は淡々と話し続けた。
「兵の動かし方、補給など全てを」
太后が笑った。
「つまり、自分たちの首を締める知恵を、与えたかもしれぬ、ということか」
李牧は否定しなかった。
「それでも、戦を避ける価値はあります」
皇帝はしみじみと言った。
「戦わぬ戦、か」
「はい。ですが」
李牧は少し目を伏せた。
「これは、長い戦になります」
太后薄姫(楊端和)は、その様子を見ながら思った。
(なるほどね。刃を抜かずに戦うってわけか)
(軍師殿、いいや李牧殿。これぞあんたの得意分野じゃないか。面白い、あたしは、近くでお手並み拝見といこうか)
そのやり取りの裏で、すでに一つの流れが動き出していた。
匈奴は、ただの遊牧の民ではなくなる。
そして漢もまた、これまでのやり方では通じなくなる。
緊張感が、宮中に広がっていく。それはまだ、戦ではない。
しかし確かに、新たな戦いの、始まりだった。




