42話(匈奴の単于)
その後、一行は匈奴の本営(単于庭)へと到着していた。
各天幕の脇には、数頭ずつの馬が繋がれ、独特の馬の毛で作られた旗が風に靡いている。
その中心にある、最も大きな天幕の前に立っている男こそが、匈奴の王、老上単于だ。
(匈奴では王のことを単于という)
彼は皇女を見るとすぐに笑顔を見せた。
「なかなかよい目をしている」
その声は低いが、満足をしているのがわかる。
皇女は丁寧に頭を下げた。
単于はその様子を見て、口元を緩めた。
「気に入った」
その一言で、周囲の空気がわずかに緩んだ。
李牧は内心でほっと息を吐いた。
(まずは一つ、越えましたね)
隣で韓信が目で合図を送りながら、李牧に耳打ちをした。
「どうやら気に入ったらしいな」
その後、簡単な宴が開かれた。
酒が注がれ、肉が振る舞われた。荒々しくも、どこか陽気な雰囲気だ。
しかし、その中で一人、様子を窺う男がいた。それは中行説。
彼は、気づけば単于の近くにいた。
そして、深く頭を下げた。
「単于様」
その声は、これまでとはまるで違っていた。
低いが従順で、そしてどこか媚びを売る気配。
単于が目を向けた。
「何だ」
「恐れながら、申し上げます」
中行説は顔を上げた。
「私は元より漢の宮中に仕えておりました」
「ほう」
「ゆえに、漢の内情、制度、思惑すべてを存じております」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わる。
「もしお許しいただけるのであれば」
一歩、踏み込んで真剣な眼差しを向けた。
「これよりの漢とのやり取り、この私にお任せいただきたく」
単于の目が細められた。
「任せる、だと?」
「はい。私は漢を知りつくしております。だからこそ」
ほんのわずかに、笑った。
「匈奴にとって、損はないかと」
沈黙が落ちた。そして。
単于は、ゆっくりと笑った。
「なかなか面白い男だ」
その目には、明らかに興味が隠れていた。
「よかろう。話を聞こう」
その瞬間、中行説の目に、かすかな光が宿った。
それは忠義などではない。もっと冷たい、何かだった。
一方で、そのやり取りを、少し離れた場所から見ていた者がいた。
皇女だった。彼女はじっと、その光景を見つめていた。
その表情は、変わらない。しかしわずかに、何かを疑っていた。
(もしかしてあの方は)
言葉には出さない。それでも理解はしていた。
あの男は、もう『漢の者』ではない。そう、『漢を裏切った者』だと。
そしてそれは、この先の不穏を、はっきりと予感していた。
ーーーー
帰路の道中、草原を離れ、再び漢の領へと戻る道すがら。
風は穏やかだった。しかしそんな中、韓信がふと笑った。
「なあ、李牧殿」
「何です」
「面白い話を聞いた」
韓信は肩をすくめた。
「匈奴の連中が言っていたよ。『お仲間は、随分あっさり裏切るのだな』ってな」
短い沈黙が落ち、李牧は目を細めた。
「やはり、そうなりましたか」
「気づいてたのか?」
「ええ。中行説、あの男の目は、最初から危うかった」
韓信は鼻で笑った。
「放っておくのか?」
李牧は少しだけ空を見上げた。
「いいえ。いずれ、必ず手を打つ必要があります。ただし、今ではない」
韓信がにやりと笑う。
「なるほどな。悪意を持って向かってきた時に潰すんだな」
李牧は頷いた。
「ええ。そのためにまずは、よく見ておくことです」
遠くに、漢の空が見え始めていた。
今はまだ静かだが、その中にはすでに、次の戦いの火種が眠っていた。




