41話(中行説《ちゅうこうえつ》)
それから数日が経った頃。
この日は空の色が、どこかいつもと違って見えた。
青はより深く、風はいつもより乾燥して感じた。そして草は激しく揺れていた。
そんな中、何かがふいに動いた気がした。
「……来たな」
そう呟いたのは韓信だった。
皇女の馬車の周囲にいた護衛たちも、何かを感じていた。
声は出さずに、皆が同じ方向を向いていた。
李牧は目を細め、遠くを見た。
すると草原の彼方。小さな影がいくつも見える。
それは徐々に数が増し、いつの間にかはっきりとした形となった。
騎馬だ。それもかなり速い。一直線ではなく、弧を描くように広がりながら、こちらを囲むように動いている。
「……美しい動きだ」
李牧は感心したように言った。
「包囲の形を取りつつあるな」
韓信が口元を歪める。
「歓迎のつもりか、それとも試しているのか」
「おそらくその両方でしょう」
李牧は一人、感心していた。
「この距離、この速さ、そしてこの配置まで全てが計算されている……」
やがて騎馬の一団が距離を詰めてきた。
その時だった。
こちらの隊列の後方で、わずかな乱れがあった。
一人の男が、苛立ちを隠しきれない様子で馬を進めている。
その男の名は
中行説
漢の臣下であり宦官である。今回の和親に伴う使者の一人で、皇女の守り役。
しかし……。
(なぜこの私が、このような場所へ来ねばならぬのだ!)
その心の中は、不満でいっぱいだった。
もともと、彼はこの役目を嫌がっていた。草原へ行くことも、匈奴に会うことも。
何度も断ったが、最終的には半ば強引に、この同行を命じられた。
(こんなものは使い捨てだ……)
彼は唇をわずかに歪める。
(戻れる保証もない。誇りも何もあったものではない)
その目には、激しい怒りがこもっていた。
しかしそのことを、皇帝である劉恒は知らない。そして李牧も、韓信も。
この場にいる誰一人として、彼がどれほどこの任を拒み、どれほど恨みを抱いているかを、全く知らなかった。
その後、匈奴の騎馬の一団の中から、一人の男が進み出た。
他の者たちよりも一回り大きな馬で、その馬に乗る男は、明らかに他の者とは格が違う。
周囲の騎兵たちが自然と道を開けていることからも、その立場がわかる。
彼は馬を止め、じっとこちらを見た。
その視線は鋭く、まるでこちらを品定めしているようだった。
「漢の使者か」
通訳がその言葉を伝えた。
そして李牧が一歩前に出た。
「その通りです」
その声はまったく揺るぎなく、落ち着いていた。
男の顔が馬車へと向いた。
「その中に、姫がいるのか」
「はい。漢は、争いを望んではいません。縁を結ぶことを望んでおります」
そして、はっきりと言った。
「皇女をお迎えいただくということは、食糧、酒、絹など、漢よりの贈り物も共に届くということにございます」
騎兵たちの間に、わずかなざわめきが起こる。
それは明らかに、興味と欲だった。
男の目が細められた。
「ほう、姫だけではない、というわけか」
「はい。これは一度きりの施しではなく、関係を結ぶ証にございます」
李牧ははっきりと言い切り、対等であるという意思を示した。
男はしばらく黙っていたが、やがて、ふっと笑った。
「面白い」
その一言に、場の空気がわずかに和んだ。
そしてすぐに馬車の方へ顔を向けた。
「しかし、その姫とはどんな娘だ」
皇女が馬車から姿を現した。
「私はここにおります」
彼女は落ち着いた声で答えた。
「怖くはないのか」
「怖くないと言えば嘘になります。ですが、多くの命が失われる戦に比べれば、この身一つの恐れなど、取るに足りません」
皇女の瞳は少しも怯えてはいなかった。
その言葉には、彼女の覚悟があった。
そして、その様子を窺っていた男は笑った。
「……なるほど。ただの贈り物ではなさそうだな。
いいだろう。我らの単于(王)に会わせてやる」
騎兵たちが一斉に動き、道が開かれた。
その動きは先ほどまでの包囲とはまるで違い、敵意は消えていた。
その中を進みながら中行説はじっと前を見つめていた。しかし、その目は、どこか波乱を含んでいた。
(覚えておこう、この屈辱は必ずや)
その感情は抑えきれるものではなかった。
誰にも気づかれぬまま、中行説の胸の中では、怒りが沸々と湧き上がっていた。
それはいつしか、大きな波乱を招くことになる。
しかし、この時はまだ、この男、中行説が後に大きな火種となることを、誰一人として知らなかった。




