40話(李牧の昔話)
道を進むほどに人の姿は消え、建物すら見当たらない。
ただ果てしない荒野が広がっていく。
皇女は馬車の中からその景色を見つめていた。
「これが……草原」
その声に、並列して進んでいた李牧が目を向ける。
「はい。匈奴の大地です」
皇女はしばらくその景色を見ていた。
木はほとんどない。山もない。ただ風と草があるだけの世界。
「なんだか不思議なところですね」
その時、後ろから声が聞こえた。
「不思議というより、戦いにくそうな場所だな」
そう言ったのは韓信だった。
韓信は馬を寄せ、周囲を見渡した。
「遮るものが何もない。これでは隠れることもできん。伏兵も難しいな」
李牧は笑った。
「ええ。だからこそ厄介なのです」
「李牧殿はここで戦ったことがあるのか?」
李牧は少し黙り、そして懐かしそうに風の向こうを見た。
「ええ。ずっと昔のことです」
そう言いながら李牧は昔に思いを馳せていた。
「私がまだ趙の国の将軍だった頃」
韓信は興味深そうに言う。
「聞かせてくれ」
皇女も興味深そうに聞いていた。
李牧はゆっくりと話し始めた。
「当時、北の国境は絶えず襲われていました。相手は匈奴です」
李牧の目つきが鋭くなった。
「彼らは騎兵がすべてです。それらは、軽く、速く、そして引くのも早い」
韓信が頷く。
「なるほど」
「普通の将軍なら追撃します。ですが、それではまず勝てない」
韓信が笑う。
「逃げる敵を追えば、逆に囲まれるということか」
「ええ」
李牧は頷いた。
「だから私は命じました。城から出るな、と」
韓信が目を丸くする。
「出るな?」
皇女も驚いていた。
「匈奴が来れば、城門を閉じ、村人はすべて城内に避難させる。兵は守るだけで、決して攻めさせない」
韓信が吹き出した。
「それは臆病者と言われただろう」
「ええ。国でもそう言われました。李牧は戦わない将軍だ、と」
李牧は苦笑した。
皇女が思わず言う。
「ですが、それは……」
李牧は頷いた。
「時間が必要だったのです」
韓信が目を細めた。
「何のために?」
李牧は草原を見た。
「敵を油断させるためです。私は何年も守り続けました。匈奴はやがて思い始めます。『趙は弱くなった』と」
韓信が笑う。
「何年も? それが罠か。それにしてもそんなに長い間よく堪えたな。」
李牧は頷いた。
「ある日、私は突然兵を出しました。羊や牛も外に出す。そして弱そうな部隊を見せる」
皇女が息を呑む。
「匈奴は……」
「ええ」
「見事、食いつきました。我々は10万の大軍を引きずり出すことに成功した」
韓信が笑う。
「草原の騎兵は獲物を逃さないからな」
李牧は続けた。
「彼らがより深く侵入したところで、伏兵を動かしました。左右から騎兵を回し、後ろを塞ぐ」
韓信が思わず口笛を吹く。
「大包囲網か」
「そうです。逃げ場を失った匈奴軍を文字通り、殲滅しました。その戦いで匈奴は大きな損害を受けました」
李牧は遠くを見た。
「その後しばらく、匈奴は趙の国境へは近寄らなくなりました」
皇女は黙って聞いていた。そして口にした。
「では……李牧様は、匈奴と戦って勝ったのですね」
「いいえ、勝ったとは思っていません」
「ほう?」
韓信が眉を上げる。
李牧は草原を見ながら遠い目をした。
「彼らは強い民です。土地も生き方も違う。だから衝突するのです」
沈黙の後、李牧は言った。
「ですが、戦わずに済むなら、それが一番です」
「だから姫を嫁がせる策か」
「ええ。刃よりも強いものがある」
「それは人の覚悟ですね」
皇女の言葉に李牧は少し驚き、そして、微笑んだ。
「その通りです」
韓信は急に遠い目をした。そして、遥か遠くの草原の向こうに思いを馳せた。
「そういえば、今思い出したよ。いつだったか兵法の話をしている時に聞いた話だ。ああ、あの話は李牧殿のことだったんだな」
そう言って少し口元を緩めた。
「李牧殿は『勝ったとは思っていない』と言ったが、実際はぐうの音も出ないほどの完全勝利だったと聞いていたぞ」
それから韓信はまるで自分のことのように得意気な顔をした。
「匈奴は、その男がいる限り、絶対に勝てないという恐怖が刻み込まれ、その男が前線を離れるまでの十数年、平和が保たれたとも聞いていたな」
言い終えた韓信の顔を見て、李牧は笑みを向け、一言だけ呟いた。
「遠い昔の話です」
そして李牧は話を変えるように気合いを入れた。
「さあ、姫のその覚悟が、草原の王に通じるか、これからです」
風が強く吹いた。李牧はその風を受けながら思った。
『あの頃は、この民と刃を交えた。しかし、今は違う』
草原の向こうを見つめ思う。
『今度は戦を止めるために来た』
隊列は、さらに北へ進んでいった。
その先に待つものを、まだ誰も知らぬまま。




