39話(和平のため)
それから一月後。
城門の前には、まだ朝だというのに多くの人が集まっていた。
人々は道の両側に並び、静かにその時を待っている。
暫くすると門の奥から、ゆっくりと一団が現れた。
先頭には護衛の騎兵。その後ろには、馬車が続く。
そして馬車の中から一人の女性が姿を現した。
匈奴へ嫁ぐ皇女だった。
その表情は穏やかで、憂いはなかった。
人々の間から、話し声が聞こえる。
「あの方が、匈奴へ行かれる姫君か」
誰もが騒がず頭を下げていた。
その様子を見て、皇女は少し驚いたように目を瞬かせた。
その時だった。
「姫」
呼び止めたのは皇帝、劉恒だった。
「陛下」
振り返る皇女に皇帝は、しばらく言葉を探しているようだったが、やがて優しい笑みを向けた。
「……体を大切にせよ」
短い言葉だったが、優しさの詰まった言葉だった。そんな皇帝に皇女は笑顔を向けた。
「はい。ありがとうございます」
「匈奴で何があろうと、ここはそなたの故郷だ。それだけは忘れるな」
その優しさに皇女は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉です」
その少し後ろに、そっと立っている人物がいた。
李牧そして韓信だった。
韓信は腕を組んだまま周りを見渡す。
「たいした見送りだな」
韓信の言葉に李牧はゆっくりと頷いた。
「姫の覚悟が、民に伝わったのでしょう」
そして韓信は皇女を見た。
「なあ姫」
皇女が顔を向けた。
「俺も途中まで行く」
周囲がざわめき、皇女が目を丸くする。
「韓信様が、ですか?」
「草原の道は物騒だ。俺がいれば少しは安心だろ」
そう言って韓信は肩をすくめ、李牧は苦笑した。
「護衛の将としては、これ以上ない人選ですね」
皇女は少し困ったように笑った。
「そこまでしていただくわけには……」
「気にするな。ただの暇つぶしだ」
韓信はあっさり言った。
「匈奴が聞いたら震えますよ」
笑いながら李牧が呟く。
その時だった。静かな声が響く。
「それでいい」
振り向くと、そこに立っていたのは
太后、『薄姫』だった。
皇女は慌てて礼をとった。
「太后様」
太后はゆっくりと近づいた。その瞳の奥で、別の魂が、優しく皇女を見ていた。その魂とは楊端和だった。
(なるほど。近くで見ると、なおさらよく分かる。本当に肝が据わった皇女様だ)
太后は皇女の前で立ち止まった。
「顔を上げなさい」
皇女が顔を上げると、太后はしばらく彼女を見つめ優しく声をかける。
「そなた、よく決断をした」
「恐れ多いお言葉です」
「だが覚えておきなさい。そなたは決して貢ぎ物ではない。漢と匈奴を繋ぐ唯一の架け橋なのです」
一瞬、太后の纏う空気が変わった。
「そなたは漢の誇りなのです」
皇女の瞳が強く光る。
「はい」
太后は満足そうに頷いた。
そして今度は李牧を見た。しかし何も言わない。ただ心の中で呟いていた。
(李牧殿。あんたの戦、見届けさせてもらうよ。
この姫ならきっと草原でも通用する。何たって、普通の女とは意気込みが違う)
そして太后は皇女を見つめ返した。
「では、行きなさい」
皇女は深く礼をし、馬車に乗った。
いよいよ隊列がゆっくりと動き出した。
北門を越え、草原へ向かう道へ。
「李牧殿」
韓信は隣で声をかけた。
「はい」
「匈奴の王がどんな男か、ちょっと楽しみだな」
李牧は苦笑した。
「良き出会いであることを祈ります」
その頃。
遥か北の草原。風が広い大地を渡っていた。
その中央に、大きな天幕がある。
その中で、一人の男が報告を聞いていた。
代々の王に受け継がれる称号、単于の名を継ぐ者だ。
部下が報告を入れる。
「漢から姫が向かっているそうです」
単于は手にしていた酒杯を置いた。
「姫、か」
かつて父、冒頓が笑いながら話していたことを思い出す。
先代皇帝の劉邦。白登山の戦いで死に物狂いで逃げ帰り、命乞い代わりに『己の娘ではない偽物の娘』と『酒肉』を差し出してきた男だ。
「はい。今回はその時の劉邦の息子、劉恒が選び抜いた、高貴な血を引く皇族の娘と聞きます」
単于は少し考え、そして笑った。
「面白い。また貢ぎ物か」
かつての劉邦が差し出したのは、己の命を守るための言わば『代償』だった。
しかし今、南から届く貢ぎ物はあの時の物とは意味合いが違う。
「劉恒め。今度は『和平』という名目で贈ってきたか」
単于はそう言いながら外を見た。果てしない草原が広がっている。
「果たしてその皇女とやらは、我々の戦いを止められる存在となれるのか。お手並み拝見といこうか」
風が強く吹いている。
その風の向こうから、かつての劉邦の時代とは違う、覚悟を決めた一人の皇女が草原へと向かっていた。




