38話(皇女、匈奴へ)
李牧がそっと心で祈っていたその時だった。
「李牧殿」
不意に声をかけたのは、皇帝の劉恒だった。
李牧は顔を上げ、一礼をする。
「は」
「そなたの策によって、この姫は遠くへ行くことになる」
皇帝は何か少し考えているようだった。
広間の空気はわずかに張り詰めていた。
しかし皇帝の声は、李牧を責めるものではない。
「そなたはそれでも、この策が最善だと思うか」
その問いに李牧は迷わず答えた。
「はい」
その声には決して迷いなどなかった。
「戦は、多くのものを奪います。それは命だけではありません。父を、夫を、子をそして家も村もそして心さえも」
李牧は皇女に尊敬の眼差しを向けた。
「この姫お一人の覚悟で、それが防げるのなら、これ以上の策はございません」
「俺も同感だ」
韓信が腕を組んで頷いた。
広間にいる者たちが韓信を見た。
「戦えば勝てる。だが、勝ってもまた戦になる」
韓信はあっさりと言ったあと、すぐに皇女を見た。
「だがこの姫が嫁げば、少なくとも、すぐに戦が始まることはない」
皇女は少しだけ驚いたように韓信を見た。
「俺は戦場を何百も見てきたが、一番強いのは、戦を起こさない奴だ」
韓信は真剣な顔で言う。
「知ってるか? 孫子の兵法に『戦わずして勝つのが最上』ってのがあるだろう。それこそが、最も合理的で、最も恐ろしい強さなんだ」
李牧は苦笑する。
「さすがは韓信殿です」
「やめてくれ、いつもの李牧殿の言葉じゃないか」
皇帝はしばらく二人を見ていた。
そして皇女へ向き直った。
「出立は一月後とする」
「承知いたしました」
皇女は深く頭を下げた。
「その間、望むことがあれば遠慮なく言うがよい」
「では一つだけ」
「何だ」
「父と母に会う時間をいただけますか」
「ああ、それは当然だ」
皇帝の表情が少し和らいだ。
「ありがとうございます」
一礼してから皇女は微笑んだ。
その後、会議は終わり、皆が部屋を後にする。
廊下を歩きながら、韓信がぽつりと言った。
「李牧殿」
「はい」
「いいのか、若い娘を匈奴に送る策だ。戦を避けるためとはいえ……」
韓信は前を向いたまま、少しだけ言葉を探すように沈黙した。
「良くなんてありません」
李牧は答えた。
「だろうな」
「ですが、戦はもっと残酷です」
廊下の窓から都が一望できる。
「この都で暮らす民の中に、今日、笑っている子供が何人いるでしょう。その笑顔を守れるのなら、私は何度でも同じ策を進言します」
韓信はしばらく黙って聞いていた。
そして口にした。
「俺自身は、剣を振るう方が楽に感じる」
「やめてくださいよ。先程は孫子の兵法を説いていたじゃありませんか」
李牧はそう言ってから軽く笑った。
その時だった。
後ろから聞き覚えのある声がした。
「二人とも」
振り向くと、そこに立っていたのは、太后、『薄姫』だった。
二人は礼をする。
太后はゆっくりと二人の側に来た。
そして李牧を見つめた。
その瞳の奥で、楊端和の魂が微かに笑っていた。
(李牧殿。今度ばかりはいつもと勝手が違うから少し戸惑っているようだな。戦で名を馳せた男が、今は戦を起こさない策を選んでいる。もっともあの頃も無駄な血は流さない策を探していたから、あんたならきっと大丈夫さ)
太后の口元がわずかに緩む。
「李牧殿」
「はい」
「その姫のことだが」
一瞬だけ、意味深な間があった。
「必ず守るように」
韓信が驚く。
「匈奴に嫁ぐんだぞ?」
「だからこそだ」
李牧は何も聞かず頭を下げた。
「承知しました」
太后はその場を後にした。
そして去り際、心の中でふと呟く。
(李牧殿。この姫の旅路、最後まできちんと守ってやってくれ)
楊端和の魂は、どこか楽しそうだった。
(何かあれば、あたしも、少し手を貸してやろうじゃないか)
こうして、一人の皇女の旅立ちが、歴史を動かし始めていた。




