37話(皇女の決意)
それから数日後。
皇宮の静かな一室に、数人の人影があった。
皇帝である劉恒。そして太后の『薄姫』、さらに李牧と韓信。
そして、もう一人。まだ年若い一人の皇女だった。彼女は太后の遠縁にあたる。
皇女は静かに座っていた。
その背筋はまっすぐ伸び、少しも怯えた様子はない。
皇帝はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「そなたを呼んだ理由は、もう聞いているな」
皇女は静かに頷いた。
「はい、陛下」
匈奴との表向きは親善。しかし実のところ、貢ぎ物で買った縁。
皇族の姫を嫁がせ、匈奴と縁を結ぶ。それがこの場の議題だった。
皇帝はすまなそうに話しかけた。
「……本来なら」
言葉が詰まる。
韓信がちらりと李牧を見た。
「本来ならば、私の実の娘を送るべきだが、それができぬ」
皇帝は正直に話した。
「皇族の血を持つとはいえ、そなたは私の娘ではない。それなのに国のために遠くへ行かせる」
その声には、はっきりとした辛さが感じられた。
「これは、皇帝としての決断だ。しかし父として考えれば、卑怯なことだ」
李牧も韓信も黙っていた。
皇女はしばらく皇帝を見つめていた。
「陛下。それは違います」
彼女は口を開いた。
皇帝は顔を上げ、彼女の話に真剣に耳を傾けた。
「もし戦になれば、多くの民が死にます。父を失う子も、夫を失う妻も生まれます。それを止めることができるのなら」
そう言ってほんのわずかに、微笑んだ。
「私一人の人生など、取るに足りないものです」
皇帝の目が揺れる。
皇女はさらに言った。
「それに、私は皇族です。国のために生きるのは名誉なことでもあるのです。もし戦にでもなったなら、私の父や母、妹の命だってどうなるのかわかりません。ならば、この選択に後悔はありません」
その言葉は、驚くほど落ち着いていた。
韓信が呟いた。
「……大した姫だ」
李牧も頭を下げた。
「お見事です」
皇女は少し照れたように笑った。
「そんなに褒めないでください。陛下、どうか迷わないでください。これは、私が望んで行く道です」
皇帝はしばらく言葉を失っていたが、やがて言葉を発した。
「……すまぬ」
「謝らないでください。私は誇りに思っております」
その姿を太后は静かに見守っていた。そして太后とは別の魂が、ただただ感心していた。
その魂とは、かつて水を統べていた『黄河の女王』楊端和の魂だった。
(なるほど。なかなか肝の据わった皇女様だ。濃姫を思い出すな)
あれほどの決意を持っているとはさすがだ。その上、皇帝を励ましている。
(戦場でも通じる気概だね)
彼女の口元が緩む。そして今度は李牧を見た。
(李牧殿。あんたのやり方は、やっぱり面白い。刃ではなく人の覚悟で戦を止めるとは、なるほどね、たいした男だよあんたはさ)
太后(楊端和の魂)はわずかに微笑んだ。
そして尊敬の眼差しで言った。
「陛下。この姫は立派だ。必ずや匈奴でも敬われるに違いない」
皇女が少し驚いて太后を見た。
「安心して送り出しなさい」
太后の言葉は不思議な重みを持っていた。
皇帝はそれに頷いた。
「……そうですね」
そして皇女を見た。
「そなたの名は、必ず漢の歴史に残る」
皇女は少し恥ずかしそうにした。
「そんな大げさなものではありません。ただ、戦が減るなら、それで十分です」
韓信がぽつりと言った。
「李牧殿。なんだか男の俺たちより覚悟があるな」
李牧は苦笑した。
「ええ。本当に立派です」
そして静かに思った。
(これが血を流さない戦い方か)
その日、一人の皇女が国境より遠い草原へ向かう運命を受け入れた。
李牧は心の中で思った。
(たった一言『嫁げ』と言えば済む話だ。それなのに、こうして礼を尽くすとは。この王の誠実さが、人を変える力になっていくだろう。ならせめて、この皇女の歩む道に、少しでも救いがありますように)




