36話(匈奴)
太后の足音が完全に遠ざかると、広間には再び静けさが戻った。
しかし先ほどまでとは違う静けさだった。
官僚たちは互いに顔を見合わせている。
皇帝、劉恒はゆっくりと息を吐きながら二人を見た。
「母はああいうお方だ」
「十分伝わった」
そう言って韓信は笑った。
「だが母の目はいつも確かだ」
皇帝もわずかに笑った。
「母が認めた者を、私が疑うことは決してない」
そう言って立ち上がった。
「李牧殿」
「は」
「そなたには、私の側にいてもらう」
官僚たちがざわめいていたが皇帝は続けた。
「戦いを止める術を持つ者は、この国に必要だ。何故なら争いは戦場だけで起きるものではない」
「承知いたしました」
李牧は黙って頷いた。
皇帝は次に韓信を見た。
「韓信殿」
「なんだ」
韓信は腕を組んだまま答えた。
「そなたには軍を見てもらう」
「は? 戦がない国だろ?」
「だからこそだ」
皇帝は穏やかにそう言った。
「戦を知らぬ将が軍を率いれば、いざという時に国が滅びる」
「なるほど。平和のための軍か」
「その通りだ」
「聞いたか」
韓信は李牧を見た。
「退屈はしなさそうだ」
「ええ」
李牧が笑った。しかしその時だった。
一人の官僚が前に出た。
「陛下」
「何だ」
「その二人を重用すること、臣下は反対です」
広間がざわめいた。そんな中、その男は続けた。
「いかに才能はあっても、どこの誰とも分からぬ者。その上、先代の皇帝陛下を侮辱するとは」
「文句があるなら言え」
韓信が鼻で笑った。そして李牧がため息をついた。
「続けよ」
皇帝は言った。
「私は、この者たちを都に置くべきではないと考えます」
そう言って、官僚は頭を下げた。
広間の空気が重くなる。その時だった。
「私は、父のような英雄ではない」
皇帝が言った。官僚たちが驚いて顔を上げた。
「しかし、民が安心して暮らせる国を作ることならできる自信がある」
そう言ってから、男を見た。
「そのために必要な者を、私は率いる」
広間の誰も反論できなかった。
「失礼いたしました」
そう言って、男は深く頭を下げた。
「見たであろう」
皇帝は周りに悟られぬよう二人に言った。
「この宮廷は静かだが、争いは常にある」
「確かにな」
韓信が笑う。李牧も頷いた。
「ええ」
「だからこそ、そなたたちが必要なのだ」
「微力ながら、お力になります」
李牧は礼をとった。
「まあいい。俺も暇だ」
韓信は肩をすくめた。
そんな二人を見て、皇帝は満足そうに頷いた。
こうして、戦場で名を残した二人の将は、 伏魔殿のような宮廷に足を踏み入れた。
それが、静かな時代の中で始まるもう一つの戦いの幕開けであった。
ーーーー
数日後。
宮廷の大広間では重い議論が続いていた。
北方からの報告が届いた。
匈奴の騎兵が国境付近に現れ始めている。
官僚の一人が声を上げた。
「陛下、軍を送るべきです! このままでは民が怯えます!」
別の官僚も続く。
「奴らは欲深い。力を見せなければ、さらに南へ下ってくるでしょう!」
広間の空気はまるでこれから戦が始まるかのようだった。
皇帝は静かに二人を見た。
韓信が腕を組んだまま答えた。
「騎兵相手の戦なら、やりようはある。だが、勝っても終わらん」
広間がざわめいた。
「遊牧の民は逃げるのが得意だ。奴らには城も国もない。だから潰してもまたすぐに戻る」
それは、戦を知る者の言葉だった。
「李牧殿」
皇帝は声をかけた。
李牧は一歩前に出た。
「はい」
「そなたはどう見る」
「戦えば勝つことはできるでしょう」
官僚たちがうなずく。しかし李牧は続けた。
「ですが、戦は終わりません」
韓信と同じようなことを言う。
「匈奴は国に縛られない。負ければ逃げ、隙を見てまた集結する。まさに風のように捉えどころがない。」
皇帝は興味深そうに聞いている。
「ではどうする」
「縁を結べばよいのです」
官僚たちがざわめいた。
「縁?」
「ええ」
「皇女を匈奴の王に嫁がせるのです。もちろん名目上の皇女で構いません」
広間が一斉に騒然となった。
「なっ!」
「皇族を蛮族に!?」
官僚たちが口々に反対する。しかし李牧は落ち着いていた。
「戦は恨みを残します。しかし婚姻は縁を残します」
皇帝は尋ねた。
「縁が争いを止めると?」
「完全には止まりません」
李牧は正直に答えた。
「ですが減らすことはできます。匈奴は誇り高い民です。皇帝の血を分けた姫を妻に迎えれば、それは同盟の証となるでしょう」
「なるほど。戦わずして、縁を結ぶか」
韓信が横で笑った。
「刃で血を流すのではなく、血で縁を繋ぐか」
皇帝はしばらく考えていた。そして言った。
「その姫は、国のために故郷を離れることになる」
李牧は深く頭を下げた。
「それでも戦で万の民が死ぬよりは、尊い犠牲です」
広間が静まり返ったその時だった。
奥から声がした。
「良い策だ」
官僚たちが振り向く。そこに立っていたのは
太后『薄姫』だった。
「戦で勝つのは容易い。しかし、戦を起こさせぬのは難しい」
そして李牧を見る。
「そなたはそれを知っている」
そう言われ、李牧は頭を下げた。
皇帝はゆっくりと頷いた。
「匈奴と縁を結ぶ。戦ではなく、婚姻で。それが民を守る道ならば、私はその道を選ぼう」
官僚たちはまだ戸惑っていた。しかし、この日、漢は一つの道を選んだ。
戦ではなく、縁によって北の民と向き合う道を。
「李牧殿」
韓信がほんの少し笑った。
「血を流さない戦いってやつか」
「ええ。これもまた、戦です」
韓信は思った。
(これぞ神からの使命ってやつだな)




