46話(済北王と匈奴)
それから月日が流れた。
漢の国が、ついに『本当の恐怖』に襲われる時がやってきた。
即位から数年。
皇帝が自らボロ服を着て、民のために蓄え、我慢で守り続けた平和を、北の匈奴が無残にも踏みにじった。
彼らは国境を越え、何万人という民を殺し、火を放った。
その裏には、漢を恨む男、中行説の冷酷な知略があった。
「北方より早馬! 匈奴、長安に迫る勢いにございます!」
「村が焼かれ、民が連れ去られております!」
「各地の守備隊、死力を尽くして応戦するも被害は甚大!」
広間は一瞬で騒然となった。
そんな中で、一人の男が前に出た。
太中大夫の賈誼。若き天才である。
彼の目からは激しい怒りと、そして苛立ちが見て取れた。
「ですから、何度も申し上げたではありませんか」
その声は、決して大きくはない。しかし広間のすべてを包み込んだ。
「今の漢は火のついた薪の上で寝ているようなものだ、と」
以前、その言葉を聞いた者たちは皆笑った。
大げさだ、と。そんなこと若者の戯言だと。
しかし今、その誰もが口を閉ざしていた。
賈誼は続ける。
「外からは匈奴が攻め込み、内では、済北王が兵を集めております」
ざわめきが走る。
賈誼はさらに踏み込んだ。
「済北王は、今はただの地方の王。しかし陛下と同じ劉氏の血を引く皇族、いわばお身内。その済北王の目的は、ただ一つ」
賈誼の視線が鋭く光る。
「この長安を奪い、自らが皇帝の座に就くことにございます」
広間の空気が凍りついた。
「陛下!」
賈誼は一歩踏み出した。
「外には匈奴、内には皇族の反乱。このままでは、漢は内と外から同時に焼かれてしまいます!」
その瞳が、まっすぐに皇帝を射抜いた。
「今すぐ、この火を消さねばなりません。さもなくば、漢は、間違いなく灰になります」
沈黙が落ちた。
その重い空気の中で、玉座に座る皇帝は、ゆっくりと目を閉じた。
そこにあったのは、迷いではなかった。その瞬間。
「兵を出す」
声は静かだった。
だが、その一言で場の空気が変わった。
韓信が口元を歪める。
「ようやく、か」
李牧は何も言わず、ただ静かに頷いた。
(神よ、この戦ばかりは止められません。いいえ、止めてはならぬ戦なのです)
皇帝は立ち上がる。
「民を守る。それが皇帝の務めだ」
その言葉には、揺るぎがなかった。
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それから、直ちに大軍を動かした。
李牧は防衛線を引き、被害の拡大を抑える策を敷く。
敵の動きを読み切った韓信が、一気に勝負を決めた。
同時に、済北王の動きにも対処が始まっていた。
李牧は迷わず進言した。
「陛下、済北王は機をうかがっております。匈奴の侵攻による朝廷の動揺、そこを狙うに相違ありません」
皇帝は頷いた。
「ならば、隙を見せぬ」
韓信が笑う。
「内と外、同時に相手にするってわけか。面白い」
李牧は首を振る。
「いいえ。分けて対処します」
「外は抑え、内は速やかに断つ」
その目は冷静だった。
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やがて。大軍によって匈奴の侵攻は食い止められた。
皇帝は逃げる匈奴を追わなかった。深追いすれば兵の食糧が必要になる。それに武器もだ。何より兵を死なせたくない。そうなれば民に対して税を強いることになる。それだけは、何としても避けたかった。
済北王の動きも封じられた。
逃げ場を失った済北王は、捕らえられる前に自ら毒を煽り、自害した。
最後まで、声は荒げなかった。ただ一言。
「劉恒の天下か」
それだけを言い残し、息を引き取った。
侵攻も反乱も大きく広がる前に押さえ込まれた。
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そして数日が経った頃、その一報が、都に届く。
「済北王、自害」
韓信が鼻で笑った。
「甘いな。公開処刑でもしなけりゃ、また同じことをする奴が出るぞ」
広間の空気がわずかに張り詰めた。
しかし、李牧は首を振った。
「いいえ、十分です」
「ほう?」
「見せるべきは、恐怖だけではない」
その言葉に、皇帝がゆっくりと口を開いた。
「同意見だ」
穏やかな声だった。
しかし、その一言にすべてが込められていた。
「身内をむやみに殺したくはない。だが、裏切りは別だ。その一線を、はっきり引かねばならぬ」
やがて韓信が、ふっと笑った。
「……なるほどな。優しい顔して、一番厄介なやり方だ」
李牧は頭を下げた。
「見事でございます」
(この方は、戦を知らぬのではない。無益な血を流さない勝ち方を知っている)
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賈誼は、その様子を見ていた。
(確かに薪は燃えた。しかし、この方は、その火に油を注がない。むしろ、燃え広がらぬよう、押さえ込んでいる)
それは、自分の考えとは違うやり方だった。
しかし、賈誼は否定も、できなかった。
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こうして、漢は、大きな戦を避けた。しかし同時に、戦わぬことで勝つという道を、改めて示した。




