34話(積年)
朝の空気は、驚くほど静かだった。
李牧はゆっくりと目を開けた。そこに広がっていたのは、戦場ではなかった。
ただ畑が広がっていた。しばらく空を見上げていた李牧は、息を吐いた。
「妙に静かですね」
隣で草の上に寝ていた男が、むっくり起き上がった。
「何だここは」
体を起こしたのは韓信だった。彼は周囲を見渡し、李牧に話しかけた。
「なあ」
「何です」
韓信は少しだけ空を見上げた。
「さっきの話、聞いていた」
李牧が首を傾げる。
「さっき?」
「神の前だよ」
韓信は苦笑した。
「李牧殿が言ってくれたことだ。俺の魂も一緒に救ってくれってな」
「当然のことを言ったまでです」
「普通は言わないさ」
韓信は肩をすくめた。
「俺は自身の野心で滅びた男だ」
「それでも貴方は、私の友です」
「……参ったな」
韓信は一瞬驚いた顔をし、そして笑った。
「礼を言う」
「礼には及びません。それになんだかいつもの貴方らしくないですよ」
韓信は空を見上げながら瞳の中の光るものをそっとごまかした。
「韓信殿、条件付きなのですから、どうなるかはこれからですよ」
「わかってる。この世界で使命を果たせばいいのだろう?」
「そうです」
韓信は今度はにやりと笑った。
「なら決まりだ」
「決まり?」
「今度も、やり遂げる」
韓信は拳を軽く握った。
「この世界で神の使命を果たして、次こそは二人で胸を張って天界へ上がろうじゃないか」
「ええ。そのために、ここへ来たのですから」
二人は空を見上げた。
ーーーー
「ここには畑しかないのか?」
韓信が顔をしかめた。
「つまらん」
その言葉に李牧は苦笑した。
「神は言っていました。戦の少ない時代だと」
韓信は腕を組む。
「少ない、じゃなくて無いの、間違いじゃないのか?」
そのときだった。
遠くの畑で働いていた農民が、二人に気づいて声をかけてきた。
「おい! 誰だあんたたち」
「旅の者です」
すかさず李牧が答えた。
農民たちは顔を見合わせた。
「旅? こんなところに?」
一人の老人が二人をじっと見つめた。
「お前さんたち、役人か?」
「役人に見えるか?」
「いや、見えん」
老人は素直に頷いた。
「だが最近、この辺りに新しい役人が来ると聞いてな」
「新しい役人?」
李牧が首を傾げる。
「北の代国を治めていた方が、皇帝になられたんだ」
老人は得意げに言った。
「知らんのか? 新しい皇帝は(のちの漢の文帝) 劉恒様だ」
李牧はその名を繰り返した。
「……劉恒」
「良い皇帝様だそうだ。税を軽くしろと言ったらしい。戦もやめるそうだ。残酷な刑もなくしたという」
「戦をやめる皇帝?」
韓信が鼻で笑った。
「そんな者がいるのか?」
「さあな。だが、皆そう言ってる。今度の皇帝様は穏やかな方だと」
李牧は空を見上げた。
「なるほど……」
韓信が横目で見た。
「何がなるほどだ」
「ここは、神の言っていた世界です」
「知ってる。随分と退屈そうだな。戦が少ないと言っていたから俺たちの出番もない」
「そうでしょうか」
「何?」
「神はあくまで戦が少ないと言っていました。なら私たちは戦いをなくす手助けをするのです。それに戦いが少ないということはまた違う問題が生まれます」
「例えば?」
「欲望、権力、そして政治です」
「なるほど。それはそれでまた違った戦になりそうだ」
そのときだった。遠くから馬の足音が聞こえた。役人の一団が道を進んでくる。
農民たちが慌てて道を開けた。
「道を開けろ! 皇帝陛下の使いである!」
農民たちが慌てて膝をつく中、韓信が目を細めた。
「早いな。もう来たのか」
(神はなんて気が短いのかね)
「ええ。そのようですね」
馬に乗った役人が二人の前で止まった。鋭い目をした男だった。
「貴殿らが、数々の騒動を智略のみで収めるという流れ者か。今すぐ都に出向いて欲しい。陛下が待っておられる」
それだけ告げて、去っていった。
「面白い」
韓信が笑った。
「流れ者? それにいきなり皇帝陛下ですか」
李牧は空を見上げた。
(神よいくらなんでも強引過ぎます。しかし、きっとこれが最後の試練なのでしよう)
遠くに見える長安の空は、穏やかだった。
しかし李牧は知っていた。どれほど平和な時代であっても人の世に争いが消えることはない。その争いをできる限り、戦わずして抑えること。それが今度の使命なのだと。
李牧は歩き出し、韓信が隣に並んだ。
「なあ」
「何です」
「退屈しねえといいな」
「ええ」
「きっと、忙しくなりますよ」
二人は都へ向かって歩き出した。
戦なき時代へ。そして新しい運命の中心へ。
ーーーー
長安。ここは人が行き交い、荷車が走り、商人の声が響いている。
戦国の荒れた城下町とは違い、秩序があり、その上活気があった。
韓信は都の門をくぐりながら、感心したように辺りを見渡した。
「ずいぶん平和な都だな」
「ええ。まったく戦の気配を感じません」
いつのまにか側に、案内役のような男が一緒に歩く。
(神よ驚かせないでいただきたい)
「当たり前だ。今の皇帝陛下は戦を好まぬ」
「皇帝が戦を好まないとは珍しい」
韓信が笑った。
「それが漢の皇帝陛下、劉恒様だ」
役人は少し誇らしげに言った。
暫くして二人は宮殿へ案内された。そこは、豪奢ではあるが、どこか質素な造りだった。
「止まれ」
ひとりの役人が言った。
「陛下に会わせる」
門が開き、二人は広間へ通された。そこには数人の官僚らしき者が立っていた。そして、その中央に一人の男がいた。
質素な衣を着た男だった。
皇帝にしては、あまりにも飾り気がない。
しかし、その目はよく人を観察しているようだった。
「そなたたちが知略に長けた者なのか?」
李牧はすぐに礼を取った。韓信は少し遅れて頭を下げる。
「名は?」
「李牧」
韓信が続く。
「韓信」
その名を聞いた官僚たちがざわめいた。
しかし皇帝は微動だにしていない。そして、すぐに人払いがされた。
その後は三人にだけの会話となった。
「李牧。どこかで聞いた名だ。もしや、あの古の守戦に長けた無敗の軍師殿なのか?」
李牧は答えなかった。
次に皇帝は韓信を見た。
「韓信。その名は知っている」
韓信の眉が動いた。
「ほう」
「兵法の書を読んだことがある。そこに出てくる名だ。それに……」
「それは光栄だ」
韓信が言った。
皇帝は韓信をじっと見つめた。
「韓信殿、そなたは私の父、劉邦の時代の者ではないのか?」
李牧はわずかに目を見開いた。
しかしその瞬間、隣に立っていた韓信が怒りの滲んだ目を向けた。
「父だと? なるほどな。劉恒という名を聞いた時に何か引っかかっていたんだ」
韓信の目に、鋭い怒りが宿っている。
「その父とやらの妻に、俺は殺されたんだ。もっとも、それを一番望んでいたのは、その父とやらだがな」
韓信の声には抑えきれない怒りが混じっていた。
「功を立てた将を疑い、罠にかけ、処刑した。それがあの国のやり方か?」
その言葉に、皇帝は目を伏せた。
「……すまぬ」
皇帝が頭を下げた。
「私はその時代のことを、すべて知っているわけではない。だが」
そう言ってゆっくりと韓信を見る。
「父の妻、呂雉がそなたを処刑したことは、聞いている。それがどれほど理不尽であったことか」
「皇帝として、詫びよう」
皇帝はもう一度、深く頭を下げた。
韓信は一瞬言葉を失った。
(皇帝自ら頭を下げるとは本来なら有り得ない)
その時、李牧が一歩前に出た。
「韓信殿。その劉邦の妻、呂雉とこちらの皇帝は何の繋がりもない。陛下の実母ではない」
韓信は舌打ちをする。
「分かってる」
しかし怒りはまだ残っていた。
李牧は皇帝に向き直る。
「陛下。どうかお気になさらず。その出来事に、陛下は関わっておられません」
皇帝が顔を上げた。
「こちらの陛下劉恒様は、その時まだ幼く、代国におられた方。楚漢の争いにも、宮廷の陰謀にも関わっておられない」
李牧は韓信を見た。韓信はしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……まあな。この男に怒っても仕方ない」
そして肩をすくめた。
皇帝は申し訳なさそうに頭を下げた。
「それでも、私の国で起きたことだ」
「律儀な皇帝だな」
韓信は苦笑した。
「まあいい。今回は水に流してやる」
場の空気が、ようやく和らいだ。
皇帝は二人を見つめた。
「そなたたちのような者が、今この時代、私の前に現れたのは、きっと意味があるのだろう。夢で告げられたのでな」
「そうだな」
韓信が笑う。
「ええ。私たちは導かれて参りました」
李牧も頷いた。




