31話(信長との別れ)
桶狭間の戦いは終わった。
しかし、戦国の世は、終わってはいない。
寧ろこれからだった。
信長は命の危険に何度も晒されながらも勝ち続けた。
どんな戦いでも、信長の傍らには常に李牧と韓信がいた。二人の天才的な知略が、信長を負け知らずの頂点へと導く手助けとなった。
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それから、何年もの月日が流れた。
尾張の一国に過ぎなかった勢力は、次第に広がり、いよいよ核心へと進出する。
そして、ある日。
高く聳え立つ城を、李牧は感慨深く見つめていた。
「……実に見事ですね」
その城は、これまでの城とは明らかに違っていた。
威圧するためではなく、見せるための城だった。
その城は、ただ立っているだけで周りを圧倒していた。
これまでの常識を覆し、新しい時代を作り出そうとする強い意志が、その姿にははっきりと示されていた。
韓信が口笛を吹く。
「城というより、まるで宮殿だな」
その城の名は、安土城。
その城を見上げながら、李牧はぽつりと呟いた。
「……まるで、始皇帝のようだ」
韓信が横目で見る。
「秦の皇帝か」
「ええ」
李牧は頷いた。
「この知識は、私がかつて転生した時、楚漢戦争の時代に知ったものです」
「なんだ俺の時代じゃないか」
「ええ。私が韓信殿と初めて出会った、あの頃のことです。そう、貴方が名を残した時代でもありましたね。実はあの時、私も遠くから見ていたんですよ」
李牧は感慨深げに続けた。
「その時代、秦はすでに滅びていましたが、その影響はいたるところに残っていました。」
それから李牧の話が続く。
貨幣の統一、法の整備、文字の統一……。
そして、自らの威厳を示す巨大な宮殿。
李牧は、再び安土城を見上げた。
「それこそが阿房宮です」
韓信が、ふっと笑った。
「ああ……この安土城と同じだと言いたいんだな」
「信長様がやろうとしていることは、かつて始皇帝が成し遂げたことと、驚くほどよく似ています」
李牧がどこか遠い目をした。
すると韓信が突然、大きな声を上げた。
「思い出したぞ!」
「その阿房宮に火を放ったのは、項羽だったな。確か……三ヶ月もの間、燃え続けたと聞いたぞ」
李牧は頷いた。
「ええ。秦の象徴が、炎に包まれ、滅びた瞬間でした」
そして、わずかに目を細めた。
「信長様の安土城を見ていると、あの燃え盛る阿房宮を思い出してしまいます」
韓信が肩をすくめた。
「で? この城も、そうなるか?」
李牧はすぐには答えなかった。
ただ、安土城を見上げる。
(同じ道か、それとも、違う道か)
この時はまだ李牧も韓信も知らなかった。
この安土城も、阿房宮と同じように作った本人がいなくなったあと、すぐに火を放たれて消えてしまうという悲しい共通点があるということを。
しかし、李牧には何か感じるものがあったようだ。
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その後。
二人は城内へと通された。広間ではなく、奥の方、信長の私的な空間だった。
そこは意外なほど簡素でしかし、一つだけ目を引くものがあった。
机の上に置かれた竹簡(書物)。李牧はそれに目を止める。
「……これは」
思わず手に取り、紐解くと、そこに記されていたのは司馬遷が書いた『史記』。
李牧の目が、鋭く見開かれる。
「信長様は、これを……」
韓信が覗き込む。
「読めるのか?」
李牧は息を吐いた。
「……読めるでしょう。この方は、人一倍学ぶことを惜しまない。それに、この国には僧侶もいる。漢文に通じる者も少なくない」
そして竹簡を巻き直した。思考が、繋がっていく。
(貨幣の流通)
(楽市・楽座)
(宗教勢力の排除)
(政と宗教の分離)
そのすべてが、かつての『天下を一つにした男』の姿を思い出させた。
(やはり始皇帝と同じ道を……)
しかし。
違和感があった。
(いや、違う、この男は……)
韓信が笑う。
「どうした? 難しい顔をしているな」
「考えているのです。この方が、同じ道を辿るのか、それとも……その結末を知った上で、別の道を選ぶのか」
その時だった。
「何をしている」
声が響いた。
二人が振り向く。
そこにいたのは、織田信長。
李牧はそっと竹簡を机の上に戻した。
「失礼いたしました。殿が、こちらを読まれているのかと」
信長は一瞬だけ李牧を見つめた。そして笑った。
「面白いぞ。昔の王は、どいつもこいつも好き勝手やっている」
「殿も同じだろう」
韓信が吹き出す。
「違いない。……そう言えば、その竹簡の中に二人と同じ名の男がいたぞ。ただの偶然か?」
信長は大声で笑った。そして、ふと真顔になる。
「しかしだな、すべてを手に入れても、すべてを失う者もいる。二人ならわかるよな」
李牧の目が真剣になる。
(やはり信長様は知っている。かつて始皇帝がどうなり、その国がどう終わったかまで。だから、ただ似ているんじゃない。すべてを知った上で、あえてこの道を選んでいるのですね)
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やがて。
別れの時は、音もなく訪れた。
その夜、城の外。月明かりの下で、三人は立っていた。信長が笑いながら言う。
「二人共、実に面白い人間だったな」
「人間か。一度死んでいるがな。だか、面白さでいったら殿も同じじゃなかったか」
そう言って韓信が笑う。
信長はそれを鼻で笑った。そして李牧を見る。
「李牧殿はどうだ」
李牧は、一礼した。
「殿は、確かに普通の人間とは違う。貴方は時代を動かすお方です。しかし、戦乱を終わらせる王ではない」
信長の目が光る。
「ほう」
「しかし、その礎を作った王です」
「ならば、それで十分だ」
信長は大声で笑った。
それだけだった。
韓信が肩をすくめる。
「じゃあな。次に会う時は、もっと面白い戦を見せてくれ」
信長は振り返らなかった。
「勝手に見ていろ」
その背中が、闇へと消えていく。
その時、信長の左手が小さく振られた。それは別れの挨拶ではなかった。
『あとは俺がやる、お前たちはもう休め』
そう言わんばかりの、ぶっきらぼうで、しかしどこか優しさに満ちた仕草だった。
李牧はその背中に、かつて仕えた王たちにも、滅ぼした王たちにもなかった『孤独な覚悟』を見た。
李牧は、そんな男の姿を見つめながら思った。
(この男は確かに、時代を変えた)
そして男は、いつか、自分がいなくなった後の時代を生きる、次の『誰か』のための道を残すのだろう。
かつて始皇帝がそうであったように。
自らが天下を治めるためではなく、天下が治まるための礎として、きっと彼はこの世に現れたのだ。
彼の出現は必然だったに違いない。
そして、目を閉じる。
「李牧殿、光が強まってきたぞ」
韓信の声が遠くなる。
「ええ。私たちの役割も、これでおしまいのようです」
(ここまで、か)
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光が、世界ごと二人を包み込んだ。
二人の気配は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
闇の中、織田信長は一人、足を止めた。
『……軍師など、最初からいなかった。そうだろう?』
独り言に応える者はいない。
信長はただ一度だけ夜空を見上げ、再び戦乱の続く世へと歩き出した。
その背には、李牧の言った、孤独な覚悟があった。




