30話(歓声)
それから。
城へと近づくにつれ、城門の外に集まった人々から歓声が上がった。
「殿がお戻りになったぞ!」
「義元討ち取り!」
そして、城中が一気に沸き立った。
その後、広間には重臣たちが集められた。
そこへ現れたのは、血と泥で汚れた鎧姿の男。尾張の主、織田信長だった。
広間は一瞬静まり返った。
そして、一人の家臣が声を震わせて尋ねた。
「殿……本当に……」
「義元の首はすでに運ばせている」
信長はあっさりと言った。
その一言で広間が爆発した。
「おおおっ!」
「まさか……!」
「三万の軍を……!」
歓声とどよめきが入り乱れる。
ある者は涙を浮かべ、ある者は拳を握り締めた。
尾張の小さな国が、駿河の大大名を討った。
それはまさに奇跡だった。
しかし、その中でただ一人だけ、静かに座っている女性がいた。
信長の正室、濃姫だった。
信長はそれに気づき、口の端を上げた。
「何だ。お前は驚かぬのか」
「殿が勝つと思っておりましたので」
家臣たちが振り向き、信長は笑った。
「ほう」
「ただ」
「何だ」
「殿は少々、派手すぎます」
広間に笑いが起きた。
信長は満足そうに頷くと、突然立ち上がった。
「話は終わりだ」
家臣たちが顔を見合わせる。
「殿、どちらへ?」
「吉乃のところだ」
広間が一瞬静まり返る。
しかし、信長は気にも留めず歩き出した。
「しばらく城を空ける」
そう言い残し、信長は城を出ていった。
庭へ出ると、三人の者たちがその後ろ姿を見送っていた。
李牧。韓信。そして濃姫。
信長の姿が遠ざかっていく。
「堂々としたものだな」
韓信が肩をすくめた。
「何の話です?」
李牧が聞いた。
「側室だろう。吉乃とかいう」
韓信は答え、そしてチラリと濃姫を見た。
「正室の前で堂々と会いに行くとは。なかなかに酷い男だ」
濃姫は少しだけ沈黙し、そして、ふっと笑った。
「酷い?」
「普通はそうだろう」
韓信が答えた。
「いいえ。殿にとって、清須城にいる側室たちは、政のため」
濃姫は淡々と言っている。
「政?」
「ええ。家を繋ぎ、織田の血を取り引きの道具に使うための」
濃姫の目には覚悟が滲んで見えた。
「そして、私は殿の同志です。既に父が亡くなった今、美濃との縁は切れましたから」
濃姫はあくまで表情を崩さない。
「そして生駒吉乃は……殿にとっての癒やし」
一瞬だけ声が詰まった。
「それぞれ役割というものがあるのです」
暫くして韓信が苦笑した。
「なるほど。見事なものだ」
李牧も頷いた。
「殿には、あなたのような方が必要なのでしょう」
「別に日ノ本では珍しいことでもありません」
その言葉を聞きながら、濃姫の中で、別の声が笑った。
(本当に日ノ本の女は強いな。見事としか言いようがない)
楊端和は心の中でそう呟いていた。
「奥方のような妻がいたなら殿は安心だ」
韓信が笑う。
その言葉に濃姫も微かに笑いながら、彼女はふと何かを思い出したように語り始めた。
「そういえば……美濃からこの尾張へ嫁ぐ際、父、道三から短刀を渡されたのですよ。『信長が真のうつけであったなら、これで刺せ』と。父は私を、織田の内情を探るために送り込んだのです」
唐突に語られた昔話に、韓信は驚き、李牧は静かにその言葉の重みを理解しようとした。
濃姫は自嘲気味に笑った。
「あの時、私は父にこう言い返しました。『この短刀が、父上を刺すことになるやもしれませぬ』と」
(ははっ! さすがだね。親を脅して嫁に行くとは、よっぽど気が強かったと見える)
濃姫の中の楊端和が愉快そうに声を上げた。
「ですが、父の心配は無用だった。知っての通り、殿は、想像をはるかに超える『うつけ』……いいえ、とても普通ではないお方です。三万の軍勢をたった数千で打ち破る男を、どうして刺す必要がありましょう」
濃姫の表情には、微かな、しかし確かな誇りが感じられた。
短刀は今や、どこにあるのかもわからないまま、使われることはなかった。
「父の目は正しかった。そして、私の目も。……今はただ、殿がこの乱世をどう変えていくのか。その行く先を、一番近くで見届けたいだけです」
李牧はその言葉に、前世で自分が抱くことのできなかった『主君への絶対的な信頼』を感じ、思わず胸を打たれていた。
「見事な覚悟です。父すらも敵に回して、ここへ来られた貴女のような『同志』がいてこそ、殿の目指す道は開けるのでしょう。戦を終わらせるのは、決して殿お一人の力ではないのですね」
韓信もまた、苦笑しながら頷いた。
「なるほど。蝮の娘は、親父さんよりよっぽど鋭い牙を持っていたわけだ。全くだ、戦国という世は、男も女も油断がならない」
(ああ、本当に気に入ったよ、あたしの器の濃姫が見る『天下』ってやつを、このあたしも一緒に拝ませてもらうとしようじゃないか)
楊端和の不敵な笑い声が、どこか遠くで聞こえた。




