24話(織田信長という男)
寺の戸を開けると、冷たい風が吹いていた。
そこは、二人が今まで生きてきた場所とは、時代も国もまるで違っていた。
韓信は周囲を見回していた。
「さて、この日ノ本とやら。まずはその尾張に行くとするか」
「尾張なら、ここからそう遠くはないですから」
「初めてなのに詳しいな」
「ええ。そのために神はこの寺に下ろしたのでしょう。そこに織田信長という男がいるはずです」
「確か、天下を狙う王だったな?」
「はい」
二人は歩きながら話をしていた。
「ただし今の彼は、まだ天下人とは程遠い」
「ほう」
「周囲からは『うつけ者』と呼ばれ、身内さえも侮っている」
韓信は不思議そうな顔をした。
「『うつけ者』?」
「愚か者、常識外れな振る舞いをする者のことです」
李牧はいったん立ち止まった。
「しかしその男は、誰よりも先を見ています」
「先、か。まさか天下を取った後のことまで考えているのか?」
「ええ。彼にとっての戦は目的ではなく、ただの通過点でしかありません」
韓信は驚きを隠せない。
「李牧殿」
「何でしょう」
「もしその信長という男が、ただの愚か者だったら?」
李牧は迷わなかった。
「彼はただ、目的のために『うつけ者』を演じているだけです。彼にとっては、すること全てに明確な計算が働いているのです」
韓信は笑った。
「なるほど、だとしたら真に興味深い男だ。敵を欺く前に、まず味方をか。フン、食えねえ男だぜ」
その口元が、わずかに吊り上がる。それは、かつて戦場で幾万の軍を動かした男が、勝利を確信した時の笑みだった。
「久しぶりに面白い戦になりそうだ」
二人は歩き続けた。
この時はまだ、尾張の若き城主もまた、自分のもとへ二人の天才が向かっていることを知らなかった。
ーーーー
その頃。
尾張国の那古野城|。
城の奥の庭を、一人の女性が眺めていた。
信長の正室、濃姫である。
美濃と尾張、宿敵同士の縁を繋ぐためだけの政略結婚。彼女はその『駒』として送り込まれた。
しかし、濃姫は、ただ父の命に従うだけの姫ではなかった。
庭の空を見上げ、ふっと笑う。
『尾張も、なかなかに面白そうじゃないか。さて、今日からこの尾張の風向きがどう変わるのか見届けさせてもらおうか』
もう一つの楊端和という魂が言った。
城の奥では軍議が開かれていた。
そして夫。織田信長。
彼は世間では『うつけ者』と呼ばれている男。
しかし、濃姫は思っていた。
(信長は、そんな男ではない)
あの目。あの笑い方。あれは、ただの愚か者のものではない。濃姫は肩をすくめた。
すると今度は濃姫の中の楊端和が呟いた。
『さて、そろそろ李牧殿が、韓信を連れてこちらへ顔を出す頃。天下の軍師を相手に、あの『うつけ』がどう立ち回るか。見ものだな』
濃姫の中の楊端和はひとりごとを言いながら歩き出す。
この日、那古野城の中に、時代を越えた三つの魂が集まりつつあった。
それは、李牧、韓信、そして楊端和。
その中心にいるのが、織田信長だった。
しかしこの事実、全てを知っているのは濃姫の器を借りている楊端和だけだった。
ーーーー
その頃、城の奥では、織田家の重臣たちが集まり軍事会議が開かれていた。
尾張の地は肉親同士が争い、内情は乱れていた。
さらに国境の外では今川義元という強敵が尾張を狙い、美濃の主・斎藤道三もまた、婿であるこの若き城主が真にうつけなのか、それとも力を隠している男なのかを見極めようとしていた。
つまり織田家は決して安泰とは言えなかった。
そしてその軍議の中央には一人の若者が座っていた。
派手な着流しを纏ったその男の目は、場を切り裂くほどに鋭かった。
この男こそが、織田信長であった。
「それで、貴様らの策はそれか」
信長が言った。
すると重臣の一人が答えた。
「はっ。まずは守りを固めてですね」
その瞬間だった。
バンッ!!
部屋の戸が勢いよく開いた。
家臣たちが一斉に振り向くと、立っていたのは見知らぬ男が二人。
一人は長身で鋭い眼差し。
韓信だった。
その後に、冷静な目をした男が立っていた。
李牧だ。
「無礼者。何者だ! どうやってここまで入って来た!」
家臣の一人が怒鳴った。
韓信は周囲を見渡した。
(どうやってと聞かれても。悪いな、神の加護。導かれたのさ)
そして、軍議の中央に座る若者を見た。
その瞬間、韓信は、にやりと笑った。
李牧が小声で言う。
「韓信殿?」
韓信は黙ったまま。ただ信長を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「なるほど」
「何がです?」
李牧が聞くと、韓信は口の端を上げて若者を見た。
「この男なら、間違いない。天下を取れる」
すると、軍議の場がざわめいた。
しかし、信長は怒らなかった。
むしろ興味深そうに二人を見ている。
「ほう」
信長が聞いた。
「貴様ら、名は?」
李牧が前に出て頭を下げる。
「私は李牧と申します」
韓信が続く。
「俺は韓信だ」
信長の眉がわずかに動いた。
『その名……確か古い異国の書物にあった名では?』
信長が心の中で呟いた。
李牧は顔を上げ、信長を見た。
「我々には、この戦乱を終わらせる策があります」
(これも神の加護なのか。切りつけてくる者は一人もいない)
家臣たちはただ、息を呑んで見ている。
信長の目が光った。
「ほう」
李牧は少し微笑んだ。
「まずは清須城を落としましょう」
すると場の空気が凍りつき、家臣が叫んだ。
「馬鹿な! あの城は守りが固い。水に守られているんだぞ」
韓信が肩をすくめた。
「安心しろ。俺が奇襲を仕掛けてやる」
信長はしばらく二人を見ていた。
やがて、楽しそうに笑った。
「面白い。李牧、韓信、二人の策でやってみせろ」
その目が鋭く光った。
「できたなら、貴様らを家臣にしてやる」
李牧と韓信は顔を見合わせた。
そして静かに頭を下げた。
その瞬間。
異国から来た二人の天才は織田信長という未来の王のもと、戦国の世を終わらせる戦いへと踏み出した。




