20話(韓信、魂の叫び)
その後、わずか数年のうちに、韓信は李の立てた戦略を次々と実行に移した。
川を背にして退路を断ち、兵士の底力を引き出した伝説の『背水の陣』など、常識外れの奇策を連発。 趙や 斉といった大国を次々と制圧していった。
彼の功績はもはや誰の手も届かない頂点に達していた。その凄まじい実績と、韓信という名前の響きは、いまや主君である漢王、劉邦の存在感をも凌ぐほど、巨大なものになっていた。
そして紀元前202年、垓下の戦い。
そこで李牧と韓信が仕掛けたのは、武力ではなく『心』を折る罠だった。
深夜、垓下の要塞。
食糧は底をつき、兵士たちは飢えと寒さに震えていた。そんな絶望の暗闇の中で、項羽は信じられないものを耳にした。
それは、四方の包囲陣から湧き上がる、懐かしい故郷楚の国の歌声だった。
「何故だ、漢軍の中にこれほど多くの楚の人間がいるのか? 故郷はすでに占領されてしまったのか?」
これが、後に絶望的な孤立を表す言葉となった『 四面楚歌』だ。
《懐かしい故郷の歌を聞き心が折れ、もはや味方は皆捕らえられたと思わされた》
兵士たちは戦意を喪失し、次々と逃げ出した。
項羽の傍らには、彼が唯一愛した女性虞美人がいた。
項羽は彼女との別れを悲しんだ。
「虞よ、虞よ、お前をどうすればいい」
そう言いながら彼は涙を流して歌った。
彼女は、項羽が自分を気にかけて脱出の足手まといにならないよう願い出た。
「どうか私のことは気にせず、最後まで覇王らしく……」
そう告げ、自ら命を絶ってしまった。
愛する者も、誇り高き軍隊もすべて失った項羽は、わずか28騎で包囲を突破したが、長江のほとりでついに退路を断たれてしまった。
そこで彼は、偶然にもかつての部下で、今は漢軍の将軍となっていた呂馬童を見つけた。
「おい、お前は昔の知り合いじゃないか」
項羽はニヤリと笑ってこう言った。
「漢の王(劉邦)は、俺の首に莫大な賞金と領地をかけているらしいな。よその誰かに手柄をやるより、お前に俺の首をくれてやるよ!」
そう言い残すと、彼は自ら首を刎ねて果ててしまった。
ーーーー
李は、張良、蕭何と共に、劉邦を天下人に導くという神から与えられた使命を完全に達成した。
しかし、彼の心は晴れなかった。なぜなら、歴史は次の悲劇へと、針を進めていた。
天下統一後、李は韓信の運命を救うため、最後の策を講じた。
「大将軍。約束どおり、あなたは王の位を手に入れました。ですが今のあなたは、漢王にとって強すぎる存在です。このままでは、いずれ疑われます。今すぐ領地と兵を返し、自ら身を引いてください。静かに暮らすと願い出るのです。それが、あなたが生き残るためのたった一つの道です」
李は昔の自分を振り返りながら続けた。
「昔、ある王に忠義を尽くした家臣がいた。だが王は、その忠義よりも力を恐れ、やがて疑い、彼を処刑した。どれだけ忠義を尽くしても、王が疑えば意味がありません」
李はそう伝えた。
しかし、韓信は首を振った。
若い頃、股をくぐらされる屈辱を受けた男だ。
その悔しさを力で晴らし、天下に名をとどろかせた。
「これほど戦で勝ち、命を懸けてきたのに、なぜ自分から力を捨てねばならぬのだ」
その誇りが、李の言葉をはね返した。
「李殿。あなたの知恵は認める。だが私は、天下を三つに分ける話さえ断り、劉邦に忠義を尽くしたのだ。それでも疑われるというのか」
李は答えなかった。いや、答えられなかった。
分かっていたからだ。
韓信の誇りと野心こそが、いつか彼を追い詰めることを。
ーーーー
やがて劉邦が天下を統一すると、韓信の力は少しずつ削られていった。
軍を動かす権限を奪われ、王の位も取り上げられる。
与えられたのは『淮陰侯』という名ばかりの爵位だけ。
都から出ることも許されず、常に見張られた。
李の助言は、運命を止めることはできなかった。
ただ、少し先延ばしにしただけだった。
それでも李は、その場を離れなかった。
張良は賢く、先に身を引いた。
韓信が監視される中、李だけは地位を保ち続けた。
韓信の最後を見届けるために。
そして、その時はやって来る。
劉邦が遠征中に、皇后である呂后は、蕭何と共謀し、韓信を謀反の罪で捕らえ、容赦なく処刑した。
李が最も恐れた『忠義を踏みにじる』という歴史の悲劇が、再び繰り返されてしまったのだ。
李は、韓信の処刑の報告を聞いた夜、静かに空を見上げた。
その夜、都には、韓信が処刑される際に残した、絶望と痛恨の叫びが響き渡ったと伝えられた。
【俺を見出し、ここまで引き上げたのは蕭何だった。(だからこそ信じていたのに……)
そして今、俺を地に落とし、殺そうとしているのも、同じ蕭何だというのか!】
《蕭何はかつて、劉邦が韓信を認めなかった際、軍を去ろうとする彼を必死に追いかけ、劉邦を説得した恩人だった。それほどの絆がありながら、最後は劉邦の妻(呂后)に言われるがまま、韓信を罠におびき出した》
《成敗は蕭何にあり》最後に韓信が残した言葉だった。
李は、その言葉を聞き、身を震わせた。韓信の絶望は、李牧が経験した『主君の無能による、外部からの謀殺』よりも、さらに複雑で陰湿なものだった。
(韓信は、最も自分を理解し、引き上げてくれた人間に、最後の最後で王権の論理によって裏切られた。忠義を尽くした末に、排除されるという悲劇の核心は、あの時の私と全く同じだ……!)
李は、韓信の行く末を見て直感した。
『これは、かつて私が味わった悲劇の、さらに残酷な形だ』と。
(大将軍。貴方は、私と同じく『忠義が報われぬ』という運命を辿った。私の加護をもってしても、貴方を救うことはできなかった……)
李は、韓信の処刑を最後まで止められなかったが、劉邦の猜疑心を理解し、韓信に最善の忠告を与えた。
(これ以上、私に何ができたというのか)
その後。
李の忠義は、かつての幽繆王とは違い、劉邦に報われ、最高位の功臣として認められた。
『貴方が望むだけの才覚を使える世界へ送ります。そこでは誰も、あなたの策を封じず、あなたの忠義を踏みにじらぬ』
神の加護は、李自身の魂に向けられたものだった。李は、韓信を救うことはできなかったが、自分の忠義は踏みにじられなかった。
彼の過去の報われなかった魂は、この転生の経験を通して、ある意味救済された。
李は、劉邦の時代に最高の功績を残した後、自らも病と称して政界から身を引いた。




