19話(李牧の温情)
韓信が大将軍に任じられると、戦局は一変した。
誰もが不可能と断じた難所を、彼はあっさりと突破する。
そのまま秦の旧領、関中を制圧し、さらに東へと進んだ。
その進撃は、まさに破竹の勢いだった。
李の脳裏に、かつての予感がよぎる。
(……やはり、こうなるか)
韓信の戦いは、常識では考えられなかった。
一度火がつけば、誰にも止められない。
まさに国士無双。(天下に二つといないほど優れているただ一つのもの)
その言葉が、これほど似合う男を李は他に知らなかった。
しかし、勝利を重ねれば重ねるほどに、李の胸に広がるものは、歓喜ではなく不安だった。
拭いきれぬ、違和感。
ある日、李は遠征中の韓信の陣を訪れた。
そこで見たのは、変わり始めた男の姿だった。
「俺についてくる奴は、好きにしろ」
韓信はそう言って笑っていた。
部下の離反すら咎めず奇妙すぎるほどの寛容さ。そしてその裏に透けて見える傲慢すぎる自信。
いや、それは確信にも近かった。
(……あまりにも勝ちすぎている)
李は静かに目を細めた。
勝利。才能。野心。
そのすべてが、あまりにも揃いすぎている。
そしてそれは、劉邦にとって最も警戒すべきものだ。李は、劉邦のもとへ戻るたびに言葉をかけた。
「漢王。韓信の働きは、確かに見事です」
穏やかに、そして慎重に伝えた。
「ですが彼は、戦場でこそ輝く男。政や人の機微には疎く、まだ子供と同じです」
劉邦は黙って聞いている。
李はさらに言葉を選びながら続けた。
「彼は勝つたびに軍を手元に留めず、すぐに漢王のもとへ戻しております。これらは自らの勢力を築こうとする者の振る舞いではありません。彼は、あくまで漢王の武器です」
その言葉に、劉邦の表情がわずかに緩んだ。
李は確信した。
(これでいい)
危険だが、制御できる。そう思わせればいい。
それだけで、韓信に刃はすぐには振り下ろされない。
しかし、それも長くは持たなかった。ただの時間稼ぎにすぎなかった。
その夜、李は韓信を呼び、酒を酌み交わした。
「大将軍。ひとつ、お聞きしたい」
杯を置き、静かに尋ねた。
「天下が定まった後、あなたは何を望まれますか」
韓信は一瞬きょとんとしてから笑った。
「何を、だと?」
彼は、酒をあおり、豪快に言い放った。
「決まっている。天下だ」
その目は、まっすぐだった。
「項羽を倒せば、俺に勝てる奴はいなくなる。ならばこの俺が王になる。それが当然だろう」
李の胸に、冷たいものが落ちた。
(……やはりそうなってしまうのか)
迷いも一切なく、そして、隠そうともしていない。それはあまりにも危うい。
李はゆっくりと顔を上げ、韓信を見据えた。
「大将軍。あなたは戦場では無敵です。ですが……」
わざと間を置いてから話した。
「それでは、自らの首を絞めることになります」
韓信の眉がわずかに動いた。
「劉邦という男は、情で人を生かす方ではありません」
李は今度は淡々と続けた。
「ただ一つ。己の地位を脅かすかどうか、それだけで、人を生かすか殺すかを決める方です」
静寂が落ちた。
「あなたは、あまりに勝ちすぎている」
李の言葉は、静かに、しかし確実に突き刺さる。
「そして、望みすぎてもいる」
韓信は黙って聞いている。
「天下統一が果たされた時、あなたは間違いなく、劉邦にとって、最も恐ろしい存在になります」
その瞬間。
韓信の目に、わずかな影が差した。
しかし、すぐに笑った。
「李殿。……面白いことを言うな」
しかし、李は一歩も引かなかった。
「お願いがあります」
真っ直ぐに、告げた。
「王になろうとしないでください」
一瞬、空気が止まった。
「大きな手柄を立てたなら、そのまま身を引くのです。それこそが、我が身を守る最善です」
そしてもう一度念を押した。
「あなたが生き残るためには他の選択肢はないのです」
沈黙。そして、韓信が口を開いた。
「李殿。貴方は、まるですべてを知っているかのように話すな」
そう言って、李をじっと見た。
「そんなに、俺を王にさせたくないのか?」
李は、静かに首を振った。
「それは、違います」
穏やかに、しかし強く言い返す。
「私は、あなたに生きてほしいのです」
その言葉に、偽りはなかった。
「あなたの才は、この天下を動かしました。ですが最後にあなたを救うのは、地位でも名誉でもない」
韓信をじっと見つめた。
「あなた自身の選択です」
韓信は、しばらく何も言わなかった。
ただ、杯の中を見つめていた。
しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「……変な男だな、あんたは」
しかし、その声には、わずかな揺らぎが感じられた。
それでも、李は何も答えなかった。ただ静かに、杯を傾けた。
(歴史は変えられないのかもしれない)
だが。
(選択が変われば、至る道もまた変わる。たとえ終わりが同じでも、せめて己が納得する最後を迎えて欲しい)
李は、ただそれだけを願った。




