16話(歴史が動く)
その男は、退屈そうに座りながら地面に小枝で線を引いていた。
山を描き、川を描き、兵を配置する。そうして、地面に一人で戦場を作っていた。
『ここを引けば、楚の軍は前後から挟み撃ちにされる』
小枝でまた別の線を引く。
『だが、この地形なら騎兵の強さを活かせるな』
しばらく考え、線を消した。
『違う』
男は空を見上げた。彭城での敗北。あれほどの兵を集めながら、なぜ敗れたのか。
答えは簡単だった。
相手が項羽だったからだ。
男は苦笑する。
『勝てる戦ではなかった』
そして呟く。
『しかし』
地面に再び線を引く。
『兵をこう動かせば、楚は必ず破れる』
その時だった。背後から声がした。
「お前が韓信か」
男の手が止まった。振り向くと、そこに二人の男が立っていた。
一人は落ち着いた役人の顔。もう一人は、穏やかな目をした策士だった。
彼らは蕭何そして張良。
男はゆっくり立ち上がった。そして蕭何が地面を見た。そこには描かれたばかりの戦場があった。
完璧な陣形、計算された逃げ道。そして、隠しておいた待ち伏せの兵(伏兵)。そのすべてが、敵の思い通りだった。
蕭何の目が鋭くなる。
「これは何だ」
男は少し迷いながら答えた。
「ただの落書きです」
張良が笑った。
「落書き、なのか?」
張良は地面を見つめた。
「楚軍をこの谷に誘い込み、左右から包囲する」
小枝で別の線を引く。
「ここに伏兵」
韓信の目がわずかに動いた。
張良は満足そうな顔を向けた。
「面白い」
そして顔を上げた。
「この策、誰に教わった?」
「誰にも」
蕭何が言った。
「漢王、劉邦様が会いたいそうだ」
男は少し驚いていた。
「私に? ですか」
張良が頷いた。
「そうだ」
この夜、彼の運命は大きく変わることになる。
蕭何はしばらく韓信を見ていた。粗末な衣。しかし、その目は、ただの兵のものではなかった。
「来い」
蕭何は言った。
「漢王がお前を呼んでいる」
韓信は一瞬だけ躊躇した。自分が呼ばれる理由が分からない。だが黙って頷いた。
三人は夜の陣を歩いた。
他の兵たちは皆、眠っていた。
やがて、一つの天幕の前に辿り着いた。中から笑い声が聞こえる。
「だから言っただろ」
その声は豪快だった。
「まだ終わっちゃいねぇってな」
韓信はその声を知っていた。漢王の劉邦。
張良が幕を開ける。
「漢王」
中にいた二人の目がこちらに向いた。
劉邦。そしてその真向かいに座る一人の男。
その男は韓信を見ていた。
韓信はその視線に、肌を刺すような鋭い違和感を覚えた。
この男はただの兵ではない。百戦錬磨の将ですら持っていない、何か静かで底知れないものを、その瞳の奥に隠している。
そう、その男は李牧だった。
劉邦が笑う。
「お前が韓信か」
韓信は頭を下げた。
「はい」
「この男が言うんだ」
そう言って李牧を指した。
「お前は百万の軍を動かせる将だってな」
韓信の目がわずかに動き、そして李牧を見た。
「違います」
天幕の空気が止まる。劉邦が眉を上げた。
「おい?」
李牧は続けた。
「百万では足りませんか? なら、あなたは天下の軍を動かす将です」
その言葉を聞いて、韓信は初めて笑った。
それは、この夜、男が初めて見せた表情だった。
「面白い」
韓信は言った。
「俺のこと、そこまで買うとはあなたは誰です?」
「ただの兵です」
韓信は首を振った。
「違う。貴方はきっと戦を嫌というほど知っている」
張良が黙って二人を見ている。
劉邦は笑いながら言った。
「いいじゃねぇか」
そう言って酒杯を置く。
「じゃあ試してみよう。お前に軍をやる」
蕭何が驚く。
「漢王、それはあまりに早急すぎます」
しかし、劉邦は手を振った。
「いいんだよ。ただし、本当に出来るなら、だ」
韓信はしばらく黙っていた。そして言った。
「軍はいりません」
「何?」
「まず兵を見せてください」
その言葉に、李牧は静かに目を細めた。
(やはり、この男は本物だ)
この夜。韓信という男が、ついに歴史の表舞台に現れた瞬間だった。




