15話(韓信を探す)
劉邦は立ち上がった。
張良と 蕭何も顔を見合わせた。
ただの兵の名を、漢王(劉邦)自ら探すなど本来ならあり得ない。
しかし、なぜか三人とも、李牧の言葉を軽く流す気にはなれなかった。
(これぞ神からの加護というもの)
張良が李牧に問う。
「その韓信という男、探す前に今一度聞くが、本当にそこまでの器なのか」
「はい。百万の大軍であっても、彼の手にかかれば、己の手足を動かすのと変わりません。」
李牧のその言葉に、さすがの蕭何も息を呑んだ。
蕭何が驚きなが聞き返す。
「百万だと?」
この乱世でも、そこまで使いきれる将など滅多にいない。
「ただし」
李牧の言葉に劉邦が眉を上げる。
「ただし?」
「今のままでは埋もれます。誰も気づかぬまま、ただの兵で終わるでしょう」
沈黙が落ち、やがて劉邦が笑った。
「面白ぇ」
また酒杯を手に取った。
「そんな男が本当にいるなら、早く見てみたいもんだ」
そして蕭何を見る。
「おい、蕭何、兵の名簿はお前が知り尽くしているんだろう?」
蕭何は頷いた。
「はい」
「なら早く、探してみろ。その韓信ってやつを」
劉邦の言葉に、蕭何は目を閉じ、自身の頭の中にある膨大な兵士の名簿を即座にたどり始めた。
沈黙が流れる。やがて、蕭何の目が見開かれ、蕭何は左の掌を右手の拳で打った。
「おお、左様であった! 漢王、その名、確かに名簿にございます。今、思い出しました」
張良が驚いたように蕭何を見た。
「ほう、蕭何殿。覚えがあるのか」
「ええ。以前、食糧管理の末端に、妙な男がおりました。目立たぬ男ですが、兵法の話になると、まるで戦場を上から見下ろすかのように語るのです。ただ……」
蕭何は苦笑混じりに眉をひそめた。
「自信過剰というか、態度が大きく、上官と衝突してはいつも追い出されそうになっていました。確か名は……そうです、韓信。間違いありません。李殿の言う通り、今はただの兵に甘んじております」
劉邦が膝を叩いて吹き出した。
「ははっ、それはますます面白ぇな! 上官に楯突く鼻持ちならねぇ野郎が、天下を左右する大将軍様だってか?」
劉邦は立ち上がり、李牧を指差した。
「いいだろう。張良、蕭何。明日一番でその『韓信』ってやつを連れてこい。李、お前もだ。その面が絶望に染まるか、それとも俺が腰を抜かすか……楽しみにしてるぜ」
李牧は静かに頭を下げた。
「わかりました。歴史が動き出す瞬間を共に見届けましょう」
そして、李牧は目を閉じた。歴史は、確かに動き始めていた。
この男、韓信がやがて楚を滅ぼす『国士無双』の将になることを、今はまだ誰も知らない。
そして張良は、黙って李牧を見ていた。
(この男……)
やはりただの兵ではない。だがそれ以上に気になることがある。張良は問いかけた。
「李」
「はい」
「お主、なぜそこまで未来を知っているような口ぶりなのだ?」
天幕の空気が、再び静まり返った。
李牧はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「未来を知っているわけではありません」
その言葉に、誰も動かない。
「ただ、人を見ているだけです」
劉邦が鼻で笑った。
「人を見ている、ねぇ」
また酒杯を手にした。
「それで天下が分かるってのか?」
「分かります。強すぎる者は、人を信じません。楚の王、項羽です」
劉邦の眉がわずかに動いた。
「彼は強すぎます。だから人を使えない。というより強いが故に全てを己でやろうとします」
張良が腕を組む。
「強いことが弱点だと?」
「はい。強い者は、自分で出来てしまう。だから他人に任せられないのです」
李牧の声は落ち着いていた。
「だが、漢王は違う」
李牧は劉邦を見た。
「漢王は、自分が出来ないことを知っている」
劉邦が口をへの字に曲げた。
「おい、それ褒めてるのか?」
李牧は笑顔で答える。
「はい。立派な褒め言葉です」
張良も笑っている。
李牧は続けた。
「張良殿。あなたは策を立てる」
次に隣を見た。
「蕭何殿。あなたは国を支える」
そして最後に言った。
「韓信。その男は戦を終わらせます」
天幕の中が、一気に静まりかえった。
劉邦はしばらく黙っていたが、やがて大きな声で笑った。
「ははは!」
そして酒を飲み干した。
「いいじゃねぇか。俺は難しいことは分からねぇ。だが、お前の言うことは嫌いじゃねぇ」
そして言った。
「張良、蕭何。その韓信ってやつ、一刻も早く探してみろ」
二人は顔を見合わせ頷いた。
「分かりました」
「明日、早速兵の中を調べてみましょう」
こうして、まだ誰も知らぬ一人の男の運命が、いよいよ動き始めた。
その頃、陣の外れでは、一人の兵が退屈そうに座っていた。
粗末な衣を身に纏った、背の高い痩せた男。しかし、その目は、戦場を知り尽くした者の目だった。
彼の名こそが韓信。
まだ誰にも知られていない、未来の大将軍であった。




