14話(韓信という男)
下界に戻った李牧は腹を括った。
『漢王(劉邦)、あなたは最低の男だ。しかし、その『疑いながらも人を使いこなし、手柄を惜しまず分け与える』という懐の深さが、項羽にはないあなたの唯一の武器だ。いいでしょう、その泥臭いあなたの方が流す血が少なくすむのなら私はあなたに知略を授けましょう』
李牧が目を開けると、そこは夜の陣営だった。
(さてここでも、誰からも受け入れられるという神からの加護に期待しますか)
李牧は静かに周囲を見回した。
敗戦の後の軍は静まり返っていた。兵士たちは疲れ果て、あちこちで眠り込んでいる。
しかし、一つの天幕だけは灯りが灯っていた。
そこから声が聞こえる。
「まだ諦めるには早ぇだろうが」
聞き覚えのある声だった。
天幕の隙間から覗くと、そこには劉邦がいて、向かいには二人の男が座り、真剣な顔つきで話し込んでいた。
一人は静かな目をした痩せた男。
もう一人は役人らしい落ち着いた顔つきの男だった。
「ですが、彭城での負けは致命的です。多くの味方が離れていくでしょう」
「 張良、そんなことはいちいち気にするな。離れたきゃ離れりゃいいさ」
劉邦はそう言って鼻で笑った。
そして彼は酒を一口飲んだ。
「天下ってのはな、一回負けたら終わりってもんじゃねぇ。そうだろう? 蕭何」
「ですが軍を立て直すには時間がかかります」
(……ああ、彼らが神の言っていた三人のうちの二人、張良、そして、蕭何か)
李牧は確信すると、天幕の中へ向けて声をかけた。
「時間はかかりません」
すると三人の視線が一斉に声のする方向へと向いた。
張良が目を細めた。
「貴様、誰だ」
李牧は平然と答えた。
「ただの兵です。しかしながら、この戦い、漢王(劉邦)は必ず勝ちます」
天幕の空気が一瞬止まったが、突然、劉邦が笑い出した。
「おいおい、面白いこと言うじゃねぇか」
そして酒杯を傾けながら話し出した。
「理由を聞かせてもらおうか」
すると李牧はすぐに答えた。
「理由は簡単です。項羽は強すぎる」
黙っていた張良の目がわずかに動いた。
「強すぎる者は、人を使えない。しかし漢王は違う。張良、蕭何そしてまだ現れていない男。この三人の天才を使えば、天下は必ず取れます」
劉邦が眉を上げた。
「三人?」
「張良。蕭何。そして最後の一人の名は韓信です」
その名はまだ、誰も注目していない男の名だった。
天幕の空気が変わる。張良は李牧を見つめた。
(この男……堂々とわしらを呼び捨てにしおって)
ただの兵ではない。その言葉の端々に、戦を知りつくした者の匂いを感じた。だが張良は顔色を変えなかった。
「聞こう。その韓信という男は今、どこにいる」
「この軍の中におります」
張良が眉をひそめた。
「名も聞かぬが」
「当然です。今はまだ、ただの兵にすぎません」
劉邦が笑った。
「おいおい、面白いこと言うじゃねぇか。ただの兵が天下を左右するってか?」
「はい」
李牧の声には迷いがなかった。
「その男は、兵を率いれば天下無敵の将となります」
天幕の中が静まり返る。すると張良はゆっくりと聞いた。
「証拠はあるのか」
李牧は首を横に振った。
「ありません」
蕭何がため息をついた。
「それでは話にならぬ」
しかし李牧は続けた。
「ですが、もしその男を用いなければ、いずれ楚に敗れます」
その言葉に、蕭何の目は鋭くなり、向かいに座る劉邦は酒杯を持つ手を止めた。
「ずいぶんと、言うじゃねぇか」
李牧は劉邦を真っ直ぐ見た。
「彭城の戦いが、その証です」
天幕の空気が一瞬凍る。誰もが口にしなかった敗北を、李牧はあえて口にした。
しかし劉邦は怒らなかった。むしろ、楽しそうに笑った。
「ははっ、言うじゃねぇか。だったらその韓信って奴、すぐに探して連れて来い」
「この陣のどこかで兵として働いているはずですがまだはっきりとした居場所はわかりません」
その時、蕭何がふと考え込むように言った。
「韓信か」
その名に、わずかな記憶があった。確かその名は……喉まで出かかっているんだが……。
蕭何は顔を上げた。
「漢王」
蕭何は言った。
「一度、真剣に探してみましょう」
張良も頷いた。
「この男が嘘を言っているようには見えません」
劉邦は腕を組んだ。そして李牧を見る。
「お前、名は?」
李牧は一瞬だけ考えた。だがすぐに答えた。
「李と申します」
「いい度胸だな、李。よし、探してみようじゃねぇか。その韓信ってやつを。ただし、もしそいつがただのハッタリ野郎だったら、お前の首も一緒にもらうぜ?」
劉邦はニヤリと笑い、飲み干した酒杯を放り投げた。
こうして、まだ誰も知らぬ一人の男の運命が動き始めた。その名は韓信。
やがて天下を震わせる大将軍である。




