12話(一兵卒の李)
ここで李牧は、神から授けられた加護を思い出した。
誰にでも『受け入れられる』理。
その力は、李牧という存在をこの時代に自然と馴染ませる。
名前を言えば、人は疑わず受け入れる。
側にいるだけで、自然と仲間として扱われる。
李牧は、ただの一兵卒として名乗った。
李。
それだけでよかった。
こうして李牧は、劉邦の軍に紛れ込んだ。
しかし、その陣営の空気は暗かった。
周囲の兵士たちは、皆疲れ果てている。
怒号も活気もなかった。
ただ、敗れた軍に漂う、重苦しい空気が広がっていた。
ここは彭城の戦いの直後。
項羽の奇襲により、五十万とも言われた軍は壊滅した。逃げ延びた兵は、わずか数万。
それでも命拾いした者たちは、今ここに集まっていた。
やがて、兵士の一人が小声で言った。
「そういえば、聞いたか?」
「何をだ」
「彭城から逃げるときの話だ」
別の兵士が顔をしかめた。
「やめろ。あの話か」
「だが事実らしいぞ」
声はさらに小声になる。
「こんな話がもし劉邦様の耳に入ったら……」
「それでもよ、あんまりだ。劉邦様は逃げる際、馬車を軽くするために、自分の子を落としたらしいぞ」
李牧の手が、わずかに止まった。
「しかも三度も、だ。御者の夏侯嬰様が拾い上げたって話だ」
兵士の一人が唾を吐いた。
「天下を狙う男が、我が子を捨てるのかよ」
「それほど追い詰められてたんだろ」
「それでも、だ」
沈黙が広がる。
すると、別の兵士が笑って話す。
「だがな、あの御方は、昔からああいう人だ」
「どういう意味だ」
「平気で無茶をする。だがな、不思議なほど誰も離れていかないんだ」
別の兵士も頷いた。
「役人だった頃もそうだった。怠けてばかりで、上からは嫌われていたのに、下の者からは妙に慕われていたんだ」
「それにな、牢の囚人を逃したって話もあるぞ」
また別の者が言う。
「それで処罰されるのかと思えば、そのまま逃げた。普通ならそれで終わりのはずだが、あの御方はそこからのし上がったんだ」
李牧の顔色が変わった。
「常識では測れないということか……」
しばらくすると、また別の兵士がさらに声を潜めながら話を続けた。
「それにな」
「まだあるのかよ」
「あの御方はな、将を使うのがうまいらしい」
「使う?」
「自分では戦わねぇ。だが、戦える奴を見つけてきて、任せるんだとよ」
別の兵が苦笑した。
「つまり、自分でやらねぇ代わりに、人にやらせるってことか」
「だが、それで勝ってきたんだろ」
「……それも才能か」
ーーーー
李牧はしばし、考えた。
(自ら戦わず、人を使う……)
それは確かに王の資質の一つだった。
(しかし、そのために、子を捨てるのか?)
李牧は黙って話を聞いていた。しかし心の中で思う。
(自分が導こうとしている男は、もし、噂が本当なら己の子を我が身のために捨てる男ということになる)
李牧の心がわずかにざわついた。
その時、遠くでざわめきが起きた。
「漢王、劉邦様だ」
兵士たちが顔を上げた。
そこにいたのは、みすぼらしい男だった。鎧は泥だらけで、衣も破けている。
それなのに、その男は笑っていた。
「おいおい、そんな顔するなよ」
劉邦は兵士たちを見回した。
「まだ終わっちゃいねぇ。負けた? だからどうした。生きてるだろうが」
兵士たちは呆然とする。
「また集めりゃいい。軍なんて何度でも作れる」
そう言って笑う。まるで、敗北など気にもしていないように。
その時、李牧の目に小さな影が二つ映った。
少年と少女だった。それも泥だらけで二人とも膝には擦り傷があった。
その隣で、一人の男が困った顔をしている。
兵士の一人が小声で言った。
「あの方は確か、劉邦様の昔からの知り合いで、御者をしている夏侯嬰様だ。ということはこの子たちは……」
誰も続きを言わない。しかし李牧には分かった。
この子供たちが馬車から落とされた劉邦の子だ。
李牧は彼らを見た。
すると劉邦は二人の子供に少しだけ顔をしかめた。
「おいおい、またついて来たのか」
困ったように頭を掻く。しかし、すぐに笑った。
「まぁいい。生きてるならそれでいい」
その言葉に、李牧の胸がわずかに痛んだ。
(……この男は)
冷酷なのか。それとも……李牧には、まだ分からなかった。
しかし、一つだけ確かなことがある。
自分は今、この男を天下へ導こうとしている。その事実だった。
李牧は静かに目を閉じた。
(本当に、それでいいのか)
迷いが心に生じた。
その夜、李牧は神に問いかけた。
(目を瞑り、念じればいいと言っていたな)




