棺教徒 一
ある晩、おれは目を覚ました。例の老人がいた。
老人は壁にかかった帯鉤を眺めていた。
「あんた、何者だ?」
「お前は清くなりつつある。だが、もっと清くなければ、清趣の心境にはなれん」
「質問にこたえろ」
老人は髭を撫でた。床につきそうなくらい長い髭だった。
おれは老人を捕まえようととびかかった。
次の瞬間には朝日が差していて、おれは寝台から転がり落ちていた。
老人はきれいさっぱり消えていた。
帯鉤はこれまでの革帯で使えるものもあれば、もっと幅の広い布帯のほうが都合のいいものもあった。おれは黒染めの皮籠を買い、そこに帯を入れて、寝台の脇に置いた。
帯によって、剣の柄の位置が少し変わる。日がまだ上っていない薄暗がりのなか、おれは全ての帯と帯鉤での抜刀を稽古することにした。
抜き打ちからの巻き太刀や、切り下げの抜刀、刃ではなく柄の頭で相手の手を打つ技。
剣が手に馴染むように、帯鉤が腰に馴染み始めた。
秋の風は冷たいが、おれの体は熱かった。上衣と肌衣を脱いで、もろ肌になり、剣、棒、短刀、そして素手と鍛錬を繰り返すうちにひどく腹が減ってきた。
日は南中に達していた。
昼ごろ、外に出かけた。サキもついてきた。
何か食べるかとたずねる前に、サキが店の名前を言った。
飯亭大路の端のほうにある店だった。料亭というよりは、小物を出す茶店だ。大きな売り台に飴まんじゅうや豚脂で揚げた白玉、笹の葉に包んだちまきが山と積まれていた。
おれはまんじゅうを二つ、サキはちまきと白玉を取り、金を払った。サキを見て、店主が妙に物わかりのよさそうな顔をした。
奥に小部屋があった。サキはそこへ入り、おれもそこに入った。円い卓がひとつに椅子が四つ。薄い茶が運ばれてきて、まんじゅうをかじっていると、小太りの商人風の男がひとり、扉を開けて入ってきた。
男は明らかにおれを見て、驚いた。いるはずのない人間を見る目をおれに向けた。ただ、死人を見るような目とは違った。男はサキを見たが、サキには表情らしいものがない。
店主の物わかりのよさそうな顔がわかった。サキはここで仕事を受けている。
なぜ、おれがここにいるのか、わからなかった。サキはおれも一枚噛ませるつもりなのだろうか。
男はおれがいなくなることを望んでいるようだった。
おれが立とうとすると、サキは相手から見えないようにおれの帯鉤を人差し指でひっかけた。
「座って」
サキが言った。それなりに羽振りのよさそうな男が十五歳を越えない少女に言われるがまま、座り、額の汗を拭いた。
「あの、本当にいいんですか? ほら、その」
「問題ない」
「でも、この手の話ってのは、その、受ける側ってのと、依頼する側が」
「問題ない」
これから何を言おうが、サキはこれしか言わないだろう。依頼人は、また、額の汗を拭いた。相手は真っ当なカタギのようだった。
「その、本当にやってもらえるんですか?」
「ええ」
「怒らないでほしいんですけど、ほら、その、あなたは、ね、どう見ても、女の子じゃないですか」
「ええ」
「わたしにも、その、娘がいるんです。同じくらいの齢ですよ」
「そう」
「あああ、あ、あの、本当にやってもらえるんですか?」
「それはさっきこたえた」
「すいません、すいません。その、本当にすいません。ひょっとして、実際に、ほら、手を下すのは、そちらの士大夫がされるとか」
サキは首を横にふった。
「やるのはわたしよ」
依頼人は哀れなくらい、かしこまっていた。おれを士大夫と呼ぶくらいに。
おれも愛想はないが、サキはそれ以上に愛想がない。だから、なめられないというのもあるのかもしれない。
「仕事の内容を話して」
依頼人は灯油を商っていた。灯油商人たちは何人かで集まって、座をつくっていた。値段と供給を安定させるためだが、新しく入ってきた灯油商人が座を乗っ取ろうとしていた。無頼を雇って、嫌がらせをし、一度は店の裏でボヤを起こした。さらに困ったのは座の商人のひとりが美人局にひっかかってしまったことだった。
「で、その商人に、何度も言ったのですが、きいてくれないのですよ。それで困り果てて、その、あなたがね、そういう困った人を助けてくれると。いえ、その、もちろん、お礼はします。でも、ですね。こちらは、その、そういうこととはまったく関わりのない真っ当な商売をしてきてて、いえ、あなたがたがね、真っ当じゃないって言っているわけじゃないです。ただ、その、お礼の相場がさっぱりわからないので——」
「そっちに任せる」
「でも、その、あらかじめ決めておいたほうが」
「そっちに任せる」
こうなったら、サキはこれしか言わないだろう。
依頼人は何度もお辞儀をしながら、部屋を出ていった。
サキはおれのほうをちらちらと見ていた。何か言ってほしいようだった。
最初に思いついたのは、美人局にひっかかったのはあの男だろう、ということだ。ただ、これを言うと、まずい気がしたので、
「悪くない」
そう言っておいた。
サキは少し自慢げに口の端を上げた。
おれもそのくらいは気がつかえる。
おれがちまきを、サキがまんじゅうを注文して食べながら、店を出た。
「ヒュンガ! おーい、ヒュンガ!」
ルサムが大きな体をゆすりながらやってくるのが見えた。
「いやあ、ちょうど探してたんだ」
そう言って、おれを元いた店に押し込んだ。店主はこのときも物わかりのよさそうな顔をした。
ルサムは砂糖をまぶした揚げ麦を山と盛って、奥の部屋へおれたちを連れて行った。つまり、サキもだ。
「人間ってクズばっかしだよなあ」
ルサムの話は突拍子もない。
「何があった?」
「この世にクズは何人いるのか、気になったんだ。もし、だよ。もし、この世の人間のほとんどがクズで、まともなやつが五人か六人しかいないってことになったら、こりゃあ大変じゃねえか」
「じゃあ、まともなやつがほとんどでクズが五、六人しかいない時代はあったのか?」
「ないな。だから、大変なんだよ。この世は一度だってまともにまわったことがないんだからな」
「わたしたちもクズ?」サキがたずねた。
「あったりまえよ。だって、金もらって殺してんだぜ? こいつぁ、立派なクズ。クズのなかの選ばれしクズよ」
「ヒュンガ、わたし、この人、嫌い」
「安心しろ。おれもだ」
「おいおい、ヒュンガ! マジになんなよ! クズだけど、恥じることなんてないんだぜ! もっとひでえやつなんてごまんといる。たとえば、金を払ったのに襲ってくる盗賊とかな」
「仕事の話か?」
「そんなとこだ。おれは抜け荷をあつかってる。人には言えないもんを運ぶときもあれば、別にどうってことないものも運ぶこともある。ただ、お上はろくでなしのクソバカクズの集まりだから、めちゃめちゃな数の関所をつくる。何を運ぶにしろ、いちいち税金をおさめてたら、こっちの儲けなんてパアだ。そこで、おれはおれたちしか知らない道を通るわけだが、そういう道には山賊がいる。ここまでわかるだろ?」
「ああ」
「おれだってほめられた生き方してるわけじゃねえ。山賊どもが盗むのはそれがやつらの生き方だからだ。盗まねえと生きていけないんだ。そこで、おれは山賊どもと話をつけるわけだ。つまり、こっちからいくらか握らせて、おれの荷を襲わせないように協定を結ぶ。約束するんだ。男と男のな。ところが、この最近、荷をやられた。二度も。男と男の約束だと思ったら、相手はとんだカマ野郎だってことよ。あのくそったれども、おれから金をまき上げるだけじゃ飽き足らず、おれのケツを血が出るまで掘りやがる気だ。こんなの公平じゃねえよ」
「山賊の頭が標的か?」
「いや。そんなことしてたら、やっつけるのに一年はかかる。山じゃあいつらに敵わないからな」
「じゃあ、何をしろって言うんだ?」
「おれの荷の護衛をしてほしんだよ」
「つまり、傭兵か?」
「そんなとこだ。荷を運んでりゃ、何もしなくても、むこうからやってくる。だから、おれたちを襲えば、タタじゃすまねえってことを思い知らせる。やつらがちゃんと約束を守りたくなるくらいな」
「他にも人がいるだろ」
「いるよ。剣客崩れのクズに衛士崩れのクズ」
「それに刺客のクズか」
「そうそう。で、どうよ?」




