173.
「よし、行くぞ」
俺が踵を返そうとした、その時だ。
ミュゼの長い耳がピクリと跳ねた。
「お待ちください、ご主人様」
彼女は窓の外、遥か彼方へ視線を向ける。
その表情が険しく引き締まった。
ミュゼは『超聴覚』のスキルを持っている。
風の音や虫の羽音すら聞き分けるその耳は、常人には聞こえない遠方の異変を捉えていた。
「囲まれています。……金属の擦れる音、詠唱の準備音、そして統率された足音。数は五百を下りません」
「ほう。仕事が早いな」
「おそらく、先ほどご主人様が捕らえた斥候からの情報でしょう。狙いは間違いなく、私たちです」
俺は鼻を鳴らす。
こちらから出向く手間が省けたというものだ。
俺は震える宿の主人に振り返り、金貨を一枚弾いて渡した。
「親父、戸締まりをして奥に引っ込んでいろ。これから少しばかり、店の前が騒がしくなる」
「は、はいぃっ!? 承知いたしましたぁ!」
主人が慌ててカウンターの裏へ隠れるのを見届け、俺たちは堂々と正面玄関から外へ出た。
外は異様な殺気に包まれていた。
宿を取り囲むように展開しているのは、褐色肌の砂漠エルフたちだ。
全員が湾曲刀や長杖で武装し、ギラギラした敵意をこちらに向けている。
「出てきやがったな、侵入者め!」
指揮官らしき男が声を荒げた。
「我らが支配する聖域に土足で踏み入った罪、万死に値する! 抵抗など無意味だ、大人しく――」
「無駄口はいい。さっさとかかってこい」
俺が欠伸混じりに挑発すると、男の顔が怒りで赤黒く染まった。
「なっ……! 舐めるなよ人間風情が! 者共、一斉射撃だ! 跡形もなく消し飛ばせぇっ!」
号令と共に、数百の杖が一斉に火を噴いた。
空を埋め尽くす火球、氷の礫、雷撃。
視界を覆うほどの魔法の雨が、俺たち目掛けて殺到する。
直撃すれば宿ごと消し飛ぶほどの火力だ。
だが、俺は一歩も動かない。
ただ静かに右手をかざし、その言葉を口にするだけだ。
「――【開】」
ズオォォォッ!
空間が悲鳴を上げた。
俺の目の前に、底なしの闇を湛えた巨大な『穴』が出現する。
それはあらゆる物理法則を無視した暗黒空間への入り口だ。
殺到した数千の攻撃魔法は、その漆黒の穴に吸い込まれるようにして、音もなく呑み込まれていった。
「な……っ!?」
指揮官が絶句する。
爆発も、衝撃もない。
ただ、魔法が「無かったこと」にされたのだ。
「――【閉】」
俺が手を握り込むと、空間の裂け目はシュンと音を立てて消失した。
後に残ったのは、無傷の俺たちと、呆然と立ち尽くすエルフの軍勢だけ。
先日手に入れた邪神の力の一部だが、なるほど、これは使い勝手がいい。
絶対的な防御にして、最強のゴミ箱だ。
「さあ、次はお前たちの番だ」
俺は蒼白になった兵士たちを見回し、獰猛な笑みを浮かべた。
「死にたい奴だけ、かかってこい。全員まとめて、あの世への『門』を開いてやる」
【おしらせ】
※2/11(水)
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