◯小さくて広い世界の入り口
この日のアネモネは、自分がウェイトレスを務める喫茶店の前でとある旅人と出会いました。滅多に人が訪れない場所なので、とても貴重なことです。大きな帽子を被る旅人は言います。
「冒険を求めて歩いていたはずが、こんな何もない所に来てしまったんだ」
何もない、というのは比喩表現でもなんでもなく、本当にここは何もない場所なのです。あるのは一面の白のみ。それがこの『第四の壁の中』という空間でした。ですがそこに住んでいるアネモネを目の前にしての発言としては、不適切でしょうか。首を横に振って、
「失礼。何もない、は失言だったな」
と撤回しました。アネモネは気にせずに笑っています。
「いいえ、本当にここには何もないから大丈夫よ。この店だって、今のところハリボテのようなものだもの」
彼女の背後に建つ喫茶店cafe chokerを指さしてそう言いました。実は喫茶店はまだ運営を始める前。何も整っていない時期でした。
「マスターも今いないの。だからお店の中に案内することが出来ない……ごめんなさい。でも貴方の場合は……そうね、自覚があるのだもの。ヤドリギのところにはすぐに帰れそうよね」
「ああ、来た道を戻れば済む話だから。しかし……」
「なにか気がかりでも?」
きょとんとするアネモネに対し、旅人は腕を組みつつ、何かを考えているようでした。
「いやね、折角ここまで歩いてきたというのに……という話だよ」
アネモネはすぐに「ああ」と理解を示します。はるばる遠くまで歩いてきたのに、結果としては何もない場所にたどり着いてしまったのです。心中を察しました。
「そうよね、旅人だもの。それにどうせなら、後ろを振り返るよりも前に進みたい。そう思うものではなくて?」
「……そのとおりだ。君はものわかりが良いね」
「私もシテンの近くにいる存在だから、何となくわかるわ。もしこの世界を冒険したいのなら、貴方が行くべき道はたった一つよ」
そう言ってアネモネは、自分の肩から下げているポシェットの中から小さなパスケースを取り出しました。それを握って宙にかざすと、何もないところから扉がゆっくりと現れます。暖かな木の扉です。
「この扉の向こう! こっちはちゃんとオーナーがいて、お茶が出てくる喫茶店をやってるわ。その喫茶店でゆっくり考えるのもいいし、そこから北に向かえば、今度は街がある。そこまで行ってみるのはいかがかしら!」
「街か。活気はあるのかい」
「私はあまり行かせてもらえないの。だからこそ、貴方のような人にはその目で見てきていただきたいわ。旅人――シテンなんだから」
扉の木肌を撫でながら、アネモネは愛おしそうにその向こうを想像して言いました。
「君はシテンではないのにシテンのことに詳しいのだね」
「今の私やこの店は、シテンの道案内のためにあるのだわ。当然よ!」
「そうか、ならばその道標にそって次の道を選ぶことにしよう」
アネモネは嬉しそうに「ありがとう」とお礼を言いました。お礼を言うのはこちらのほうだと旅人は言いたげにしていましたが、くいとマントの裾を引っ張り扉の前まで誘導するアネモネにはその隙がありませんでした。
「目の前のすべてを楽しむことができるのが旅人の特権よね! だから、小さくて広い私達の世界、楽しんできてほしいわ!」
「……ありがとう。では行ってこよう」
旅人は、アネモネの作った扉を開けてその向こうへと去っていきました。アネモネは満足気に息をつきます。両手を腰にやり、したり顔を見せました。しかし、直後に表情をわずかに暗くさせます。
「私はこの扉をくぐるわけにはいかないのよね。だってお留守番の途中なんだもの。でも本当はね……この扉をくぐってカフェアリーヌに会ってみたいわ」
カフェアリーヌは、この扉の先にある喫茶店のオーナー。このときのアネモネは、彼女に「初めまして」をして以降、まだ再会を果たしていなかったのです。マスターからの言いつけも厳しいものでした。
「もう一度、会える日が来たら。そうしたら、この退屈しのぎも終わるのではないかしら。このお店はカフェアリーヌのお店の支店なんだもの。本店のオーナーに話を聞きに行くことは、悪いことじゃないわよね」
背伸びをして、扉のノブに手を伸ばしかけました。しかし間が悪いものです。その時、白以外なにもない空間の中でふわりと風が舞ったのです。それはマスターが帰ってきた合図でもあります。パッと振り返ると、アネモネの後ろに立つマスターは手提げ袋の中に沢山の食材を詰めて肩から下げていました。買い物帰りです。留守番をしているはずが何故か外にいるアネモネと、そのアネモネの前にある扉をまじまじと見つめ、問います。
「アネモネ、この扉は?」
「マスター、違うわよ! 私が行こうとしたんじゃなくて、旅人さんを送ってあげたの。ヤドリギのこともはっきりしている人だったから! べつに、大丈夫でしょう?」
「そうですか。べつに怒ろうとはしていませんよ、怯えずとも」
「お、怯えてなんかいないわ。……そう、大丈夫ならいいの、良かった」
そんなやり取りをしてから、二人はまだ開店前の喫茶店に戻っていきました。アネモネにとって、少しだけ特別な日の出来事でした。




