▼ビター インスタントコーヒーを淹れよう
「マスターなんか嫌いよ!!」
ロアが白い世界の喫茶店を訪れたとき、ちょうどアネモネがそう叫んで外に飛び出してきたのです。アネモネはロアに気づきましたが、そのまま彼女の横をすり抜けて遠くに走り去ってしまいました。ロアはアネモネを追おうかとも思いましたが、店の中にいるマスターの不機嫌そうな様子も気になり、中に入っていきました。
重い荷物を降ろしてから、マスターの横の席に腰掛けます。
「何があった」
「……昔のことを、少し」
「思い出話で喧嘩になることがあるものか」
「度々」
罰の悪い顔をしながら、マスターはロアに事の次第を説明しようか悩みました。結局は喋ってしまうのですが、唸る時間は相応に長いものでした。ロアのじっと見つめる視線に負けてしまったというべきでしょうか。
「彼女の友人を僕が泣かせたって話さ」
「……泣かせるのは良くない、が。まずアネモネにも友人がいたか」
「人見知りしないから。ロアと仲が良いのと一緒だ。ここを訪れる旅人もそうだし、ふとした出会いがあれば彼女はすぐに仲良くなってしまうよ。で、人を泣かせておいて知らんぷりっていう僕が間違ってるのはわかる。けどね、僕がその件を未だに謝罪しないのは、許してはいけないことをアネモネがしたからなんだよ」
「何をした」
ロアはカウンター席で足を組み、腕を組みながら長話を受け入れる姿勢を取りました。ですがマスターの言葉はあっさりとしたものです。
「プロミネンスルビーの一着を、その友人にあげてしまったという」
それは数着しか存在しない、アネモネにとって大事なお洋服のことでした。ロアもその存在は知っていますが、数着しか存在しないものをプレゼントに使われたという事実は初耳でした。ただ、事の大きさは実感がわきません。
「彼女の持ち物なら、彼女の勝手では。何かまずいことでも起こるのか」
「何も起こっていないから大事ではないんだろう。けど、本来あれは門外不出というべきか、貴重品なんだよ。ほいほい親切心で人にやられては困るんだ」
「なら再発しないよう厳しく指導すれば済む話」
「だが未だにあの態度だ。子供すぎるんだよ。彼女だけじゃなくて、僕もだけど」
なんでも、アネモネの友人を泣かせた理由はもともと門外不出のプロミネンスルビーを着ていたアネモネの友人にきつい態度を取ったから、というマスターに責任がある話なのですが、軽率に貸し出した――それどころかプレゼントとして手放してしまった――アネモネのことも後にマスターはこっぴどく叱りつけたのです。アネモネが根に持っているのはそのことなのです。「何もそんなに怒らなくたっていいじゃない」と。
「感情的になったのは反省しているし、そのことも伝えているよ。でもずっとこの件はあんな感じ」
「それはもう触れてはならんのでは」
「でも触れないと、もし今後より重要なものを渡したいと思っても、それが出来ないだろう」
「例えば、何を」
問われ、マスターは少し待つようハンドサインを示し、着ていたベストのボタンを外しました。それを脱ぎ、内側のわかりにくいところにつけてあった「それ」を外しました。何故わざわざそうまでしないと取れないところにつけてあるのかといえば、それが彼にとってそれだけの貴重品だったからです。
「それは?」
「ブローチ型のプロミネンスルビー」
手のひらの上には、ルビーの名前の通り真っ赤で透き通った宝石を中心に、金色の細工であしらったブローチがありました。
「これがあれば、どの服装であっても、どんなときであっても、彼女の七難は隠せる。ロア、君との冒険だってより広く様々な場所に行けるようになる」
まるで魔法のような話でした。ロアは目を丸くします。しかし、マスターは深い深い、大きなため息をついてそのブローチを懐にしまいました。椅子の上で俯いたまま脱力しています。
「もうそろそろ渡してもいいかと思っていたが、まさかまだ根に持っていたとは」
「根に持っていても、渡しても良いのでは。むしろ喜ばれるだろう。好感度は上がる」
「そういう問題じゃないんだよ」
「であれば、ただの心配性」
「それはぐうの音も出ない」
はは、と乾いた笑いです。ですがずっと浮かない顔だったマスターがやっと笑った瞬間でもありました。ロアも少しだけ笑い返します。
「『ちょっとくらい、いいわよね』が彼女には多すぎる。まだだ。これはまだ渡さないぞ」
胸ポケットをしっかと押さえるマスターの眼差しは力強く、決意に満ちていました。ロアはさしてそれそのものには興味がなかったのか、ぼーっとカウンターの奥を眺めていました。ですがふと気づいたように、マスターの胸元のポケット――白シャツなので件のブローチが透けて見えているのです――を見つめ、興味を示します。
「どうやって作られたのか、興味がある。ただの宝石とは違うのだろう?」
ああ、とマスターはもう一度ブローチを取り出し、手のひらの上に乗せます。
「君の羅針盤と何ら変わりない」
ロアの雰囲気は変わらないものの、目だけは見開かれました。思わず彼女は腰につけている青いコンパスに手を添えます。
「成程、今のでわかった。それだけアネモネの行為を警戒する理由。それは、シテンとしての力を分散させることを危惧しているのだな?」
マスターはその答えを聞き、にやりと笑うものの嫌そうな態度を示していました。内心、当てられたくなかったのかもしれません。ロアは構わず続けます。
「アネモネのパスポートの、移動する力。私の羅針盤の、知る力。他にも私達が受け取っているギフトは全て、物語を第三人称で語る『神の視点』が持つ能力を応用させたもの。マスター、君自身の力。それが、プロミネンスルビーであっても同じなんだろう? シテンは如何様にも姿を変えることができるからね。それも、人に気づかれないことに関しては何よりも特化している」
「……ご明察通り」
マスターはもともとシテンと言う名の旅種族。シテンとは神の視点。そんな彼らの持つ力のうちの一つが、姿を変える力でした。姿かたちを変えて、登場人物たちに気づかれないようにすることができるのです。
そしてアネモネやロアは、そんなマスターから様々な力を譲り受けることで生活しているのです。それは道具としてだけでなく、例えばアネモネの人形としての身体などもその一部であったりするのです。
「マスター。君は自分ができることを道具に与えて人に貸すことができるのだな。その道具を又貸しされてしまっては、確かに怒りたくもなる」
「自分の力を失うことになるからね。けど、きちんと説明していなかった僕が悪いのは重々承知の上さ」
「そうか。……アネモネはプロミネンスルビーを作ったのは仕立て屋だと言っていたが、ルビーの力そのものは君の力だったのだな。であれば、他の仕立て屋があれを作れないのも納得がいく。自分の力を分け与えるほどの相手である必要があるからな。そうであるなら――」
ロアは組んでいた足を解いて、ゆっくりと立ち上がりました。マスターを見る目が、微かに穏やかな色になっていました。
「アネモネは愛されている。そのことがよくわかった」
マスターはブローチ型のプロミネンスルビーを握りしめ、苦笑します。そんなもんじゃない、とでも言うかのように、首を横に振っていました。ベストの元あった場所にブローチは付け直し、改めてそれを着直しました。そしてロア同様に立ち上がり、彼はカウンターの中に入っていきました。
「アネモネは暫く帰ってこないだろう。少しだけ待っていれば、いずれ顔をだすよ。待っている間にコーヒーを淹れるよ。インスタントでいいかな」
「ああ、構わない。ちょうど土産にビターチョコを持ってきている。開けようじゃないか」
そういってロアは持ってきた山程の荷物の荷解きを始めるのでした。




