▽ブルーベリー 007bc3
ロアがアネモネたちの喫茶店を去ってから、数ヶ月が経ちました。
この日のアネモネはワードローブの近くにある棚を整理していました。すると、様々な服の切れ端やボタンの山の中から、鮮やかな黄色のリボンが出てきたのです。その黄色は、マーメイド・ロアの髪の色を連想させました。時折彼女のことを思い出し、今頃どの海を冒険しているのだろうと、アネモネは想像を膨らませていました。海は、彼女がまだ行けない場所の一つです。
このとき途中で、アネモネはロアと交わした約束の一つを思い出したのです。随分と忘れていたことだったので彼女は慌てました。
ひょこっとカウンターの方に顔を出すと、この店のマスターが珈琲を淹れる練習をしていました。そこに近づき、くいとマスターのエプロンを引っ張ります。
「なんです」
「あのねマスター」
両手に乗せたリボンを見せつつ、お願いごとの内容を伝えます。
「今度マーメイド・ロアが来たら、そのときには彼女にお洋服を仕立ててあげてほしいの。それで、そのときにはこのリボン、使ってあげてほしいの」
「これは、貴女のワンピースの袖についているものですか」
「そう! 黄色でしょ、ロアの髪色も綺麗な黄色だったから、似合うと思うの。だからマスターに預けておくわ」
「なるほど。……では預かりましょう。仕立て屋はそう安いものではありませんから、いつになるかわかりませんが、それでも大丈夫ですか。ましてやロアはどうやって捕まえたら良いものか」
「構わないわ! ロアがこの店に来てくれたときでいいの。ロアにはどんな服装が似合うかしら。きっとかっこいいお洋服が似合うんだわ。足が長いみたいだったから、それが映えるお洋服がいいわよね……それに人魚さんだから、人魚らしいあしらいだって欲しいじゃない?」
「想像するのは勝手ですが、作る服は全て仕立て屋のイマジネーションに委ねることになっていますからね。過度な期待をしないように」
「わかってるわよ。でも想像は自由ってことは、頭の中ではいくらでもお洋服が作れちゃうってこと。それは楽しいことよ」
アネモネは仕立て屋さんが自分の所に来ることよりも、まずロアのところに来てほしい気持ちを優先させました。その気持ちと同時に、仕立て屋さんへの興味もまたふつふつとしながら戻ってきます。
「マスターのお洋服は、仕立て屋さんが作ってくれたもの?」
淹れたコーヒーを啜りながら、マスターはアネモネの方をちらと見て、答えます。
「いいえ。街で買った既製品です。シテンはどんな姿にもなれますから、本来は不要なものですが、一応ヒトですので」
「うん。今のウェイターの格好はそうかもしれないんだけど……その、もう一つの方は?」
彼は二つの姿を取ることがあり、今の青年姿ではなくもっと幼い、少年のような姿をしていることがあります。縦横無尽な旅を続けるシテンは、自分が望む様々な姿になることができるものなのです。彼の幼い姿は今はカフェアリーヌ――オーナーさんの前でしか見せない様子ですが、そのときの服装の、目が覚めるような青はアネモネも知っています。そちらのことを尋ねました。
「ああ、『露草色』のローブですか。あれはそうですね、仕立て屋製です。フルオーダーとは少し違いますが、大切な友人に作っていただきました」
マスターは「友人」と明確に言いました。彼にも友人がいるという話は、アネモネにとって耳慣れないものでしたので、彼女は驚きます。仕立て屋さんもシテンの一人であれば、あり得ない話ではありません。ですが彼の愛おしむような顔は珍しいもので、今のこの空気にうっかり水を指してはいけないと、アネモネはいつも以上に使う言葉に気をつけようと背筋が伸びていました。両手で頬を包み、アネモネは吐息を漏らします。
「マスターのお友達。仕立て屋さん。きっと素敵な人なんだわ」
「ええ、良い品を作っているシテンでした。もう随分と前ですが、その時は鞄と椅子も新調しましたね。贅沢をしました」
「贅沢なんかじゃないわ。だって仕立て屋さんが嬉しい時っていうのは、自分の作るものを喜んで貰ったときだって言ってたもの。マスターが喜んでいたのなら、きっと仕立て屋さんも嬉しかったと思うわ」
「……そうですね。であれば、私も嬉しいものです」
マスターは淹れたコーヒーにミルクを混ぜて、アネモネにも供してくれました。アネモネはカウンター席によじ登り、そこに砂糖を加えてカップの中身をぐるりとかき混ぜます。一口飲み、笑顔を作りました。
マスターのところには善い仕立て屋さんが来ていたことを知り、アネモネは少しだけ嬉しい気持ちになりました。興味はどんどんと膨らみます。
「その仕立て屋さんは、何か自分のお話はしてくれた?」
「……一度だけ。良い話でした。それが何か?」
「仕立て屋さんもシテンなら、色々話して聞かせてくれてもいいじゃない? 私、色んなお話が聞きたいのよ」
「シテンの話が聞けるのは本来ヤドリギだけですよ」
「あ、そういうことなの!?」
シテンという存在にはルールがありました。一人のシテンに、一人のヤドリギ。物語を第三人称で語るシテンには、その物語を聞き届け、創作物という形に起こすための人間――ヤドリギと呼ばれるパートナーがいます。パートナーであるヤドリギは、シテンの語りや耳打ちを聞き届け、それを形にしてくれる唯一無二の存在でした。シテンの声を聞く権利がある人というのは、本来とても貴重なのです。
「そっか、だから仕立て屋さんは自分から何かお話してくれることがないのね。うーん、残念だわ……」
「そんなに誰かの話が聞きたいなら、またオーナーさんの所に行ってみればどうです」
「誰でも思いつくアイデアじゃないの。別に、嫌じゃないけど。うーん、行くのは簡単だけど最近話題の種がないのよ……カフェアリーヌは何かと交換しないとお話はしてくれないでしょう。マスターは何かそういうアイデアはない?」
言われたマスターは迷わずカレンダーを指さします。既に何日かバツがついているもので、月末が近づいています。
「もうすぐハロウィンです」
「ハロウィン!」
「オーナーさんにとってのかきいれ時。街に手作りの菓子を卸す為に、今精を出しているころでしょう。手伝ってきたらどうです。」
「お菓子作りのお手伝い! それ楽しそうだわ!」
そういってアネモネはオーナーさんの喫茶店に出かけることにしました。いつものポシェットを手に取り、中からパスケースを取り出して店の入口の前でもうひとつの喫茶店への扉を作るのです。
アネモネが作る扉の向こうは、宵闇が空をノックする直前。紫色の世界が広がっています。バターの香りがする店内で一人、オーナーさんは焼き菓子の梱包をしているのでした。ハロウィンが足音を立ててやってくるのです。




