▽シトラス マーメイド・ロア
グラスに飾られている輪切りのレモンを、ロアはグラスのジンジャーエールの中に入れて更に酸味を強くさせていました。それにもう一度口をつけてから、一仕事を終え隣の席にやってきたアネモネに尋ねます。
「森には木苺を? それとも散歩でもしに行ったのだろうか」
「そう! お散歩がメインよ、新しいお洋服でお出かけしてきたの!」
ぱっとワンピースの裾を広げて見せました。さっぱりとした夏服は、アネモネの華奢な体にぴったりと合っています。オーダーメイドならではでしょうか。頭のてっぺんから爪先までをじっくりと見つめ、ロアは頷きます。
「……成程。似合っている」
「似合うかしら、ありがとう! マスターとカフェアリーヌ以外の人に見てもらうなんて久しぶりだわ!」
「うん? そんなに君は人に会っていないかね」
「ええ、マスターに禁じられているの。プロミネンスルビーを着ているとき以外は、街にも出かけられない」
ロアは、聞き慣れない単語が再び出てきたことに唸ります。
「プロミネンスルビー。知らないことだらけですまないが……」
「あ、ううん。知らなくって当然よ。私とマスターと、あとほんの数人くらいしかアレのことは知らないんだもの。あとは作ってくれた仕立て屋さん達ぐらいかしら」
「仕立て屋……」
アネモネは椅子から降り、カウンター横にある納戸まで向かいました。その奥には彼女だけのワードローブがあるのです。アネモネはそこから一着のワンピースをとってきました。
「このお洋服のこと! プロミネンスルビーっていうのはね、特別なお洋服。仕立て屋さんが作ってくれた『七難を隠す服』なの。私も二、三着しか持ってない。私の身体に難があるとは私思ってないけど、人からみて都合の悪いことは全部なかったことにしてくれるお洋服は、私を見て驚いちゃう人がいなくなるようにっておまじないでもあるの。仕立て屋さんって凄いのよ、私大好きなの!」
動く人形が目の前に現れたら、いえ、目の前にいる人形が突然動き出したら、人々はとても驚くでしょう。それだけで済めばよいのですが、悪いことが起こらないとも限りません。その「悪いこと」を防ぐために、プロミネンスルビーというお洋服は生まれました。アネモネもこれを着ているときだけは、近くの街に出ても構わないとマスターから言われているのです。
ロアは初対面のときも今も、動く人形に対してあまり驚きませんでしたが、皆がこのように好意的という訳ではありません。
「驚かれるのは嫌だな。それはわかる。私も今はこのコートを脱ぐことが出来ない」
「……そうなの?」
「ああ。街で服を新調しなくてはならない。だが人前に無闇やたらと出るのも抵抗がある。その点、仕立て屋というのは良いな。最低限で事が進む」
それを聞いたアネモネは表情を輝かせます。自分が好きなものを好き、良い、と言ってもらえて悪い気がする人はいません。
「そうでしょ、そうでしょう! 折角ならロアも仕立て屋さんにお願いしてお洋服作ってもらえばいいんだわ! マスターにお願いすればすぐに――って、出かけちゃったのよね、残念。でもすぐに戻ってくるわ。そのときに私からお願いしてみるわ」
「それは、気持ちだけでも有難い」
しかし、浮かない表情をしています。心の底から喜んでいるときにはしないであろう表情を見て、アネモネは余計なおせっかいだっただろうかと少し心配しました。しかしそうではないとロアは否定します。
「私はすぐに海へ出なくてはならない。私はこの世界の海をまだ何も知らない。知らなくては、マーメイドの名に恥じる。だからあまり長くここには居られないのだ」
「海へ……? それがロアの旅なの?」
「『ロア』というのは、知識や言い伝えのことを指す。人魚の言い伝え。それが私。けれどそれ以上も以下もない。人魚の知識を体現する身であるなら、この世界の海のことは知らねばならない」
「人魚伝承ね……ということは、ロアは海の力を持っているのかしら。私は陸――大地のことしかまだ知らないの。いいえ、大地のことすらまだ勉強中ね。冒険にすら踏み出せていない。知ってることは沢山あるけど、知らないことも沢山なの。同じだわ」
ロアは頷きます。
「大地の力に、プロミネンスルビー。そうか、面白いものがこの世界にはあるのだな。冒険しがいがある。幸いにも君のマスターがコインをくれた。これでまだ旅はできるだろう」
コートの裾を振ると、ポケットの中からコインが重なる音が聞こえます。
「お金。……ロアはお金持ってなかったの?」
「いや、アレで使い切ってしまった。しかしアネモネ、私は服の一着くらい買ってくればよかったかね」
つい、と指先を動かし、ロアは先程置いたお土産の山を指します。アネモネもその存在感ある物の山には気づいていたのですが、はしたないかと思い食いついたりしなかったのです。
「気になってたの! あれはロアの荷物?」
「土産物。開けて貰って構わない」
「本当!?」
アネモネは瞳の中の花をくるくると回しました。これは目を回しているのではなく、彼女が興奮しているとき――それこそ目を輝かせるようなとき、そしてそれ以上に気持ちが高まっているときに稀に見られるものです。よほど嬉しかったのか、すぐにそちらに駆け寄りました。
大きなバックパックのような鞄は荷物でパンパンになっており、そのそばには紙袋なども沢山積まれていました。置かれている場所がアネモネにとっては高いところだったので、踏み台に乗ってからその山に手を付けていくのでした。中には小物やお菓子などが沢山詰まっています。
「これぜーんぶ?」
「そう」
「なんて素敵なのかしら。でも、特別な日でも何でもないのにこんなにいいのかしら……普段だったらマスターに怒られちゃいそうだわ。お洋服じゃなくたって、これはとっても嬉しいものよ!」
中に腕を伸ばし、手に触れたものから外に取り出していきます。
「これはどこのものかしら」
「遠い土地で採れる材を人々が手編みして作っているバスケット」
「こっちは?」
「街でよく見かける鳥をモチーフにしたぬいぐるみ。魔除けなどにも使われている」
「その美味しそうなものは?」
「箱の中にゼリーが入っている。小さなアトリエで絵を描いている者がデザインした箱」
「チョコレートもあるのね」
「これはありふれたカカオと砂糖で作られたもの。特別なものでもない」
「ううん、凄いわ。私、簡単には街に行けないの。だからこうやって手に取れるだけでも嬉しいのよ」
アネモネは楽しそうに、それぞれの物の所以をロアに聞いてゆきました。ロアは仕入れたものについては博識で、どこの何なのか、迷わずに答えていきます。その的確さにアネモネは惚れ惚れとしてしまったようです。
自分もなにか話そうとしますが、なかなか口から出てきません。勉強不足の悔しさに、アネモネは瞼をギュッと閉じながら歯ぎしりしていました。そこまで悔しがるものかと、不思議そうにしているロアにアネモネは話します。
「私ね、夢があるの。この世界の中心に、旅人のための案内所を作りたいの。カフェアリーヌが、森を抜けてきた旅人たちの為に喫茶店をやっているように、私もこの世界のあらゆるところから集まる旅人のために、道案内が出来るようになりたいの。その為には沢山のことを知らなきゃいけないのよ。でも、まだまだ知らないことだらけだわ。それが悔しいの」
「目標があるのは良いことだ。私にはそこまでの夢はない」
「私も最近まで何もなかったのよ。でも、なにかしらきっかけって見つかるものね。ロアは、既に海に行くという目標があるのだから、私よりきっと夢を見つけるのも早いはずよ」
アネモネはロアの手を両手で取って、きゅっと握りました。ロアはその言葉と手のぬくもり――人形であるアネモネの手であっても、それは温かいのです――を感じつつ笑みました。アネモネの手を握り返し、もう片方の手を重ねてから、ゆっくりと開いて手放します。
「そうか。……であれば土産は置いたし、ことは足りた。もう行かなくては」
「もう行っちゃうの」
「ああ」
アネモネが作ったジンジャーエールは飲み干され、氷とレモンだけのグラスになっていました。アネモネはあっという間の時間を名残惜しそうに、そしてすぐの別れが来てしまったことを悲しんでいました。
「もう会えない?」
「いや、また土産が沢山になったら此処に来よう。そのときにまた会える」
ハの字になっていた眉がぱっと上がり、アネモネの瞳が輝きます。
「それなら良かったわ! 今度会うときは、仕立て屋さんも呼びましょうね。それからベリーのジャムも食べていってほしいわ。それからそれから……」
あげていくとキリがありませんが、アネモネは数秒待って自分の早る気持ちを抑え込んでから、一番伝えたいことだけをしっかりと彼女の目を見て伝えました。
「ロアのお話が聞きたいの! 冒険から帰ってきたら、どんな海を旅してきたか、教えてちょうだいね!」
「……ああ、必ず」
そういってマーメイド・ロアは喫茶店を去っていったのでした。アネモネはにこやかに手を振り見送りつつ、自分自身も冒険に出たい気持ちをぐっと抑え込みます。ロアが旅する海は一体どのような場所なのでしょうか。アネモネは大海原を想像し、心を跳ねさせるのでした。




