金魚午睡
或る、晴れた昼下がり。
昔流行ったビニル系のツルりとした床が、年季を帯びて鈍く光っている。
窓の外には萌える緑。
空の青さが、春の柔らかい淡さから、夏の澄んだ鮮やかさに映り変わろうとしている。
テレビやラジオから流れる宣言で、そろそろ梅雨も終わりを迎えるのだろう。
窓際の水槽には金魚が数匹。光を受け、明るく映える水中を、優雅に泳いでいる。
──あんにゃろうめ。いつまで待たせやがるんだ。
私は荷物を積んだ台車の傍で、廊下に立たされた学生が如く。
にっちもさっちもいかない状況に、事務所奥の水槽を眺めながら黄昏ていた。
何処か現実感が行方不明だ。
あの水槽にいる金魚は、この寒暖差の激しい光景を、どんな気持ちで眺めているのだろう。
現在時刻は午後12時40分。
当初の約束時間は12時半。しかも、先方からの指定である。
そして、その時間指定をした担当の有吉くんが行方不明らしい。
昼食を中座して、オロオロしている事務員さんの姿と、お冠な係長の姿。
こうなってしまうと、文句どころか代案すら、口を挟めなくなってしまう。
待つか、待たないか。
今のところ、それが問題なのである。
有吉くんサイドの話でいくと。
依頼内容は、使用グレードの見直し。
サンプルを見ながら、違いを説明して欲しい。
所要時間は、30分程度。
指定時間の理由は、『13時から予定が入っているから』
ちなみに、上への報告の締め日は、明日23日。
昨日21日は、彼の用事で有給休暇を取っていた。
私サイドの話でいくと。
有吉くんが連絡してきたのは、一昨日21日。
その時点で既に、私のスケジュールは埋まっていた。
その隙間。私の『昼食休憩時間』にねじ込む形で本日の約束がなされている。
次の配送約束は、13時半から14時半の間。
次の配送場所は、この場所から40分の距離。
単純計算なら、13時半までに出れば、充分間に合う。
そう。私の昼食休憩を考えなければ、ね。
元々、13時に予定があると言っていたのは、有吉くんだ。
それを加味して、私は昼食時間をずらしたんだよ。
今日は少し余裕があるから、お店に入ってご飯を食べようと思ったのに。
ずっと気になってた、次の配送先の近くのラーメン屋。
先方のお客さんも『あそこ、結構美味しいよ』って言ってたラーメン屋。
やっと食べれると、ワクワクしていた今日の私。
……だ、けれども。
──悪魔が来たりて、笛を吹く。
私のお楽しみ部分のスケジュールだけ、脆く儚く砕け散りそう。
そこがどうにも、誠に遺憾で或る。
約束時間、超過してるから、切り捨てちゃって良いかしら?
でも、目の前の慌てっぷりを見てると言い出し難い。
しかも、『昼食休憩なくなっちゃうんで』とは、尚の事。
今日の戦犯は確定だ。我が厄災、有吉。
滅びろ、有吉。そして、私の昼食時間を返しやがれ。
有吉くん。昨日、有給休暇だって言ってたから。
一昨日夕方に、もう一度私から電話して確認取ったよね?
で、昨日の今日でこの有り様かよ。
『金魚の記憶は3秒』なんて謬説もあるけれど、あいつの記憶はどうなってんだ?
「有吉くん! 貴方、何処に居るの!?」
その怒号で、私は現実に降りて来た。
「ベターライフの村山さん、ずっと待ってるのよ!? 貴方、約束してたんでしょう!?」
事務員さんの声が、事務所の中でヒステリックに響く。
私への申し訳なさに、自分と係長の怒りも混ぜ込んで、煮えたぎる憤怒を吐き出しているのだろう。
──その気持ち、痛いほど分かります。
まぁ。私の前で繰り広げるのは、如何なものかとは思うのだけれども。
「嫌よ! 貴方がちゃんと自分で説明して、謝って!」
──あぁ。絶対ロクでもない理由なんだろうなぁ。
まぁ、既に。
断片的に漏れ聞こえる声で、内容は予想可能なのだけれど。
事務員さんは受話器に向かってギャアギャア喚いて、ややあって。
私に向かって受話器を静かに差し出して、目で語りながら促してきた。
私は吐きたいため息をグッと堪えて、静かに受け取り耳に当てる。
「……お電話代わりました。村山です」
『村山さん! 何でですか!? 明日だったでしょ!?』
有吉くん。ヒートアップのその先を、私に向けないで頂きたい。
すんでのところで堪えていたため息が、凄い勢いで決壊した。
取引先でのこの態度、許されない行為だけれども。
今日だけは、私は絶対悪くないはず。
「有吉さん。一昨日、提出の締切は23日と仰ってましたよ? 書類作成の時間もあるから、どうしても22日に内容説明を聞いて打ち合わせがしたい、と。」
冷静に努めたけれども、棘を隠せなかったのは許して欲しい。
『ほら、やっぱり!! だから、今日は21日で!! 村山さ……』
「有吉さん。今日は22日です」
私は、有吉くんの言葉を遮り、静かに唸る。
噛み殺した激情を抑えた結果、凄くドスの効いた声になっている自覚はあるけど、もう知らない。
ついでに、事務員さんと係長の顔もドン引いているけど、それも知らない。
きっと私の顔は、般若のようになっている事だろう。
けれども、真蛇にまで進化していない事を喜ぶべきだと思うのだ。
『で、でも。俺、今料理が届いて、食べ始めたばっかりで……』
ほほう。良い度胸ではないか。
貴様は、私を、どうしても真蛇に進化させたいようだな?
私のラーメンを奪っておいて、優雅に昼飯などとは言語道断である。
『平日休みで日にちの感覚がおかしくなっててーー』
──だから、一昨日念押ししただろうが。
『悪いとは思ってますけど、村山さんも来る前に連絡をーー』
──何を言ってる。貴様が電話に出なかっただけだ。
『だったら、明日ーー』
──バカめ。私の明日のスケジュールも、本日の午前中で既に埋まっておるわ。
電話の向こうでは、有吉くんの『言い訳ラッシュ』が続いている。
でも。私には、そんなの全く関係ねぇ。
そして私は言い返さない。どうせ話が長くなるだけなのだから。
だとしても。
ギルティー、ギルティー。
このうらみ、はらさでおくべきか。
「有吉さん」
私は再び有吉くんの言葉を遮った。
「13時から、コイズミさんと、打ち合わせ、じゃなかったんですか?」
文句は言わないが、クリティカルヒットはお見舞いしてやる。
私はゆっくりと丁寧に、そして心からの恨みを込めて、真実を渡してあげた。
『あ……』
有吉くんの時が止まった。
──どうぞ。お昼ご飯を召し上がれ。
私の時間を搾取して食べる飯の味は、さぞかし美味しい事でしょうから。
お腹いっぱい、たぁんと、お食べになりなさいな。
「では、私は次がありますので。本日は、大変申し訳ありません」
そう言い切って、受話器を事務員さんに笑顔で返す。
事務員さんも、係長も、時が止まっているけど、それも知らない。
何だか、スタンド使いみたいになってる自分自身に、笑いすら込み上げてくる。
「すみません。コイズミの鷲尾です。有吉さんとのお約束で……」
有吉くんの次の予定が、扉を開けて舞い降りた。
「あ、あの、大変申し訳ございません! 有吉は只今、外出しておりまして!」
事務員さんの、ボリュームを間違って上擦った声が事務所に響いた。
「え? ちょっと待って下さいよ。私、有吉さんの連絡ミスの尻拭いで、どうしてもって頼まれて今回リスケしたんですよ? なのに、どうなってるんですか?」
怪訝な顔の男性営業マンは、躊躇なく剣を振り下ろす。
本来、怒りを打つけるべきは、有吉くんなのだけれども、怒り心頭でこの場の空気を切り裂いた。
ここから先は選手交代。有吉よ、次の地獄に堕ちるがよい。
「三輪さん。明日、私のスケジュール動かせないんで、今回は、この前出した見積もりのままでお願いします」
私は、係長に困った風な笑みを向けた。
「……はい。本日は、大変申し訳ありませんでした」
係長は沈痛な面持ちで項垂れた。
「一応、念の為。万が一の来期のために、説明だけはして行きますので、お付き合い頂けますか?」
そこまでやれば、うちの社長に状況報告するには事足りる。
そこから先は、契約が落ちようと、そのまま飲んでくれようと関係がないのだから。
私は営業マンではない。だから、私の粗相で契約が落ちないのなら問題もない。
所詮、私は時給ファイター。契約が取れようと落ちようと、お給料には微塵も関係ない。
今からどう頑張っても、ラーメンが食べられない事が確定した私からの、イタチの最後っ屁だ。
勿論、八つ当たりの自覚はある。だが、知らん。
昼飯時間を搾取されて、恨み骨髄な私も。私に苦渋の表情を浮かべる係長も。
コイズミの営業さんに静かに詰められて、平謝りしか出来ずにいる事務員さんも。
リスケした挙句、再度すっぽかされて、静かに怒り狂っている営業さんも。
各々違う水槽から見る本当の景色は、本人にしか分からない。
ガラス越しに見ている景色は、所詮は表面上だけなのだから。
それを他人行儀で観ている金魚は、今何を思っているのだろうか。
ただ、願わくば。
悪い夢なら、早く醒めて欲しいものだ。
まぁ、そんな事は現実逃避にしかならないのだけれども。
人の事は言えない私であるのだけれど、今回ばかりは、自分の事など全力で棚の上に上げてやる。
──有吉。後でやろうは、バカヤロウだ。この野郎。
けれど、有吉くんの事だ。
数日後にはケロリとした顔で、また図々しいお願いをしてくるのだろう。
……契約が、続くならばの話だが。




