99話 雪女の誘い
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雪精王国セレナリア。
それは大陸北方に広がる、雪と氷の国だった。
一年の大半を白銀の雪に覆われ、澄み切った空気の中には、小さな雪の精霊たちが舞っている。
街並みは氷晶を思わせる白い石造りだった。尖塔の屋根には青白い光が灯り、夜になると国全体が星空の下で淡く輝く。
美しく、静かで、幻想的な国。
けれどその美しさの裏側には、冷たいものもあった。
貴族たちの権力争い。
家柄によって人の価値が決められる古い身分制度。
そして、表面だけは綺麗なまま、都合の悪いものを雪の下に隠してしまう国の空気。
ノエルが生まれたのは、そんな雪の王国だった。
優しさもあった。
思い出もあった。
でも同じくらい、孤独も、裏切りも、凍えるような悲しみもあった。
すべてを白い雪の下に隠している国。
それが雪精王国セレナリアだった。
ノクトたちは、セレナリアの寒さに備えて厚着をしていた。
吐く息は白い。
足元の雪は歩くたびに音を立てる。
ライナは分厚い外套を羽織りながら、寒そうに肩を震わせていた。
「さ、寒い……。セレナリアって、こんなに寒いの?」
「雪の国だからね」
ノエルはそう答えた。
彼だけは、この寒さに慣れているようだった。
だが、いつものような穏やかな笑顔はない。
ノエルはフードを深く被り、顔を隠していた。
「ノエル、本当に顔を隠しておくのか?」
ノクトが尋ねると、ノエルは小さくうなずいた。
「うん。僕はこの国の人たちに嫌われているから」
その声は静かだった。
怒っているわけでもない。
泣きそうなわけでもない。
ただ、諦めたような声だった。
「だから、顔は隠したい。僕がここに戻ってきたって知られたら、余計な騒ぎになるかもしれないから」
ノクトはそれ以上、何も聞かなかった。
聞きたいことはあった。
でも、今のノエルに無理に話させるべきではないと思った。
エリシアも何も言わない。
ライナだけが、心配そうにノエルの横顔を見ていた。
四人がいるのは、セレナリアの王都からかなり離れた小さな集落だった。
いきなり王都に向かうのは危険すぎる。
セレナリアが魔王軍に占領されたというなら、王都にはすでに敵の目があるはずだ。
まずは周辺の集落で情報を集める。
そう決めて、ノクトたちはこの村へ立ち寄ったのだった。
だが、村の様子は妙だった。
広場には大勢の人が集まっていた。
老人も、女も、子供もいる。
皆、暗い顔で何かを話し込んでいた。
魔王軍の話か。
そう思って近づいたノクトだったが、聞こえてきた言葉は違っていた。
「また雪女が出たんじゃ……」
白い髭を生やした老人が、震える声でそう言った。
ノクトは思わず聞き返す。
「雪女?」
老人はノクトたちに気づき、ゆっくり顔を向けた。
「旅の方か。悪いことは言わん。夜は出歩かん方がいい」
「どういうことだ?」
「最近、夜に外へ出た男たちが、何人も行方不明になっとるんじゃ」
広場にいた女たちが、暗い表情でうつむいた。
老人は続ける。
「見た者がおる。白い髪の女が、男を攫って雪原の奥へ消えていくところをな。あれは人ではない。雪女じゃ」
「雪女……」
ノクトは眉をひそめた。
どこかで聞いたことがある。
寒冷地に現れる、人型の魔物。
美しい女の姿で男を誘い、眠らせ、雪の中へ連れ去る。
確か、危険度はAランク級。
普通の魔法使いでは、まともに戦うことすら難しい相手だったはずだ。
「Aランク級の魔物だな。上級魔法使いじゃないと討伐は厳しいかもしれない」
ノクトがそう呟いた時、一人の中年女性が震える足で前へ出てきた。
「あの……旦那は、生きているんでしょうか……」
女性の目には涙が浮かんでいた。
「三日前から帰ってこないんです。夜に、少し外の様子を見に行くって言ったきり……」
ノクトはすぐに答えることができなかった。
生きている。
そう言ってやりたい。
けれど、根拠もなく希望を与えることはできなかった。
すると、別の女性も声を上げた。
「私の息子もです」
「私の恋人も……」
「うちの兄も帰ってこないんです」
次々に声が上がる。
被害に遭った人間は、一人や二人ではなかった。
ノクトは拳を握った。
魔王軍に占領された国。
その片隅で、今度は魔物に人々が脅かされている。
本当に、どこまでこの世界は人を苦しめるのか。
ノエルが静かに口を開いた。
「僕らが雪女の後をつけるよ」
村人たちの視線がノエルに集まる。
ノエルはフードを深く被ったまま続けた。
「雪女がどこに人を連れていくのか分かれば、攫われた人たちの行方も分かるはずだから」
「でも、雪女は男を狙うのよね」
エリシアが腕を組んだ。
「ただ待っているだけじゃ、また新しい被害が出るわ」
「誰かがわざと雪女に捕まるわけにもいかないもんね」
ライナがそう言った瞬間だった。
エリシアの視線が、すっとノクトに向いた。
ライナもハッとしてノクトを見る。
ノエルまで、少し申し訳なさそうにノクトを見た。
「……おい」
ノクトは嫌な予感しかしなかった。
エリシアがにっこり笑った。
「ノクト。あなた、わざと雪女に捕まりなさい」
「やっぱりかよ!」
「あなたが囮になる。雪女があなたを連れ去る。私たちは後をつける。完璧な作戦ね」
「どこが完璧なんだよ! 相手はAランク級の魔物だぞ!?」
「あなた、六魔星と戦うつもりなんでしょう? 雪女くらいで怖がってどうするのよ」
「怖いもんは怖いだろ! 魔物に黙って連れ去られるんだぞ!?」
ノクトが本気で嫌そうな顔をすると、ノエルが苦笑した。
「大丈夫だよ。僕が護衛魔法をかけるから。精霊をつけて、体の芯まで凍らないようにする」
「ノエルまでそっち側かよ」
「ごめん。でも、それが一番確実だと思う」
「僕のためにも、この村の人たちのためにも……お願いできるかな」
ノエルにそう言われると、ノクトは強く言い返せなかった。
そこへ、村の女性たちが涙を浮かべながら頭を下げる。
「お願いします。旦那を助けてください」
「息子を……どうか……」
「帰ってくるかもしれないなら、何でもします。お願いします」
ノクトは天を仰いだ。
断れる空気ではなかった。
むしろ、ここで断れば自分が最低な人間みたいになる。
「……分かったよ」
ノクトは深くため息をついた。
「囮でも何でもやってやる。ただし、絶対にちゃんと後をつけてこいよ」
「当然よ」
エリシアが当然のように答える。
「あなたが氷漬けになったら、ちゃんと砕いて持って帰ってあげるわ」
「助けろよ!」
ライナが少しだけ笑った。
ノエルも、ほんのわずかに表情を緩める。
重かった村の空気に、少しだけ息が戻った。
そして、その日の夜。
ノクトは一人で集落の外れを歩いていた。
空は暗い。
雪は静かに降っている。
家々の明かりは遠ざかり、周囲には白い雪原だけが広がっていた。
ノエルの護衛魔法はかかっている。
体の周りには、小さな精霊の気配もある。
それでも、不気味なものは不気味だった。
「本当に来るのかよ……」
ノクトは白い息を吐いた。
その時だった。
背後から、冷たい風が吹いた。
ぞくりと、首筋が凍る。
雪が舞い上がった。
白い霧の中から、一人の女が現れる。
白い髪。
青白い肌。
凍てつくような瞳。
雪の中に溶けてしまいそうなほど美しく、それでいて人間の温かさがまるでない。
まさしく、雪女だった。
「こんな夜に、一人で歩いているなんて……」
雪女は柔らかく微笑んだ。
「可哀想な人」
ノクトは息を呑む。
目の前にいるのは、ただの女ではない。
全身から冷気が漏れている。
足元の雪が、彼女の周囲だけ静かに凍りついていた。
逃げるか。
戦うか。
一瞬だけ体が動きかけた。
だが、作戦を思い出して、ノクトは歯を食いしばる。
抵抗するな。
攫われろ。
そして、巣まで案内させる。
雪女は音もなくノクトに近づいた。
冷たい指が、ノクトの頬に触れる。
「少しだけ眠りなさい」
その瞬間、体の奥に冷気が流れ込んできた。
手足の感覚が鈍る。
まぶたが重くなる。
ノエルの護衛魔法がなければ、きっと一瞬で意識を奪われていただろう。
(くそ……分かってても、これは怖いな……)
ノクトは抵抗せず、そのまま雪の上に倒れ込んだ。
雪女は倒れたノクトを抱え上げる。
細い腕なのに、力は異様に強かった。
そして、音もなく雪原の奥へ歩き出す。
少し離れた岩陰。
そこでは、エリシアたちが息を潜めていた。
「本当に攫われたわね」
エリシアが小さく呟く。
「ノクト、大丈夫かな……」
ライナが不安そうに言った。
ノエルは目を閉じていた。
ノクトに宿した精霊の気配を、必死に追っている。
「大丈夫。僕の護衛魔法はまだ効いてる。体の芯までは凍らされてない」
そして、ノエルはゆっくり目を開けた。
「行こう。雪女の巣まで案内してもらう」
エリシアがうなずいた。
ライナも拳を握る。
三人は雪に足音を消しながら、雪女の後を追い始めた。
白い夜の中、ノクトは雪女に連れ去られていく。
その先に、攫われた男たちがいるのか。
それとも、もっと別の何かが待っているのか。
雪精王国セレナリアでの最初の事件は、静かに幕を開けたのだった。
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