97話 温泉宿の夕食
今回も脱線回になっています。そろそろ冒険に出発して貰いますね!
温泉宿の夕食は、部屋食だった。
部屋は男女で分かれていたが、食事の時間だけは全員が男性側の部屋に集まっていた。
畳の上には大きな座卓が置かれ、そこへ次々と料理が運ばれてくる。
だが、その前にエリシアはノクトを見ていた。
「えらく疲れてるじゃない。いったいどうしたのよ」
エリシアがにやにやしながら言う。
ノクトの顔には、新しい傷がいくつか増えていた。
頬に引っかき傷。
額にも小さな擦り傷。
湯上がりのはずなのに、なぜか満身創痍だった。
ライナが首をかしげる。
「ノクト、どうして怪我してるの?温泉に入ってるだけで怪我することってある?」
「……まあ、人生にはいろいろあるんだ」
ノクトは情けない顔で苦笑いをした。
ノエルが心配そうに手を伸ばす。
「回復魔法、かけようか?」
しかし、その前にエリシアが止めた。
「いらないわ」
「え?」
「バカにつける魔法はないわ」
ノクトは何も言い返せなかった。
鳥に連れ去られたあと、ノクトは大変な目に遭っていた。
アオサギはカエルになったノクトをくわえたまま、露天風呂の湯気を越えて飛び去った。
(待て待て待て!このままじゃ本当に食べられる! エリシア!ライナ!助けてくれ!)
しかし、声に出るのは情けない鳴き声だけだった。
「ゲコゲコゲコォォォ!」
やがてアオサギは、温泉宿の裏手にある大きな松の枝へ降り立った。
細い枝ではない。
人の腕ほどもある太い枝に、長い脚で器用に立っている。
そして、くちばしに挟んだノクトを一度だけ上下に揺らした。
(やめろ!食べやすい向きに整えるな!)
ノクトは必死に短い手足をばたつかせる。
だが、アオサギはすぐに違和感を覚えたらしい。
くちばしに挟んだカエルから、普通の獲物にはない妙なマナの気配がしたのだ。
「ゲコ……」
(まずい。これは本気で食われるやつだ)
アオサギは首をかしげるように、ノクトを見た。
そして次の瞬間。
まるで「これは食べ物ではない」と判断したかのように、くちばしを開いた。
「ゲコォォォォォォ!?」
ノクトは、松の枝から真っ逆さまに落ちた。
そこからの帰還劇は、悲惨だった。
地面に落ちた瞬間、変身はまだ解けていない。
カエルの姿のまま、草むらへ転がる。
そこへ今度はヘビが現れた。
(なんでだよ!次から次へと食物連鎖が来るな!)
「ゲコォ!」
必死に跳ねて逃げる。
ようやくヘビから逃げたと思ったら、今度は小鳥の群れに追われた。
さらに宿の裏庭で遊んでいた小さな子どもたちに見つかる。
「あ!大きいカエル!」
「捕まえよう!」
(やめろ!枝を持つな!このクソガキども!)
ノクトは本気で命の危険を感じた。
ヘビに追われる。
鳥に追われる。
子どもに追われる。
そのたびに必死で跳ね回り、泥にまみれ、草に突っ込み、石にぶつかった。
変身が解けたときには、もう温泉に入る前より疲れていた。
そうして、ようやくこの部屋へ帰ってきたのだった。
「……本当に大変だったんだぞ」
ノクトがぼそりと言う。
エリシアは冷たい目で見た。
「自業自得よ」
「返す言葉もない」
そんなやり取りをしている間に、夕食がすべて並べられた。
座卓の上には、ただの料理とは思えない品々が並んでいる。
透き通る氷の皿には、雪の魔法で冷やされた白身魚の刺身が花のように盛られていた。
身の上には淡い光の粒が降りかかり、口に入れる前から清らかな冷気がふわりと漂っている。
小さな土鍋では、火の精霊石で温められた肉料理がぐつぐつと音を立てていた。
蓋を開けると赤い湯気が立ち上り、その中に小さな炎の蝶が一瞬だけ舞って消える。
中央には、風魔法で宙に浮かぶ果実の盛り合わせがあった。
薄く切られた果物が花びらのように回転している。
手を伸ばすと、一切れだけがふわりと皿に落ちてきた。
「すごい……料理まで魔法で飾られてるんだね」
ノエルが目を輝かせる。
ライナはすでに箸を握りしめていた。
「すごい!これ全部食べていいの!?」
「当たり前だよ。宿の夕食なんだから」
ノエルが笑う。
お嬢様育ちのエリシアは、特別に驚いた様子はなかった。
それでも、目の前の料理には少しだけ感心しているようだった。
どこか満足げな表情で、杯を手に取る。
ノクトは顔の傷を押さえながら、静かに箸を取った。
「……鳥に食われかけたあとだから、余計にうまそうに見えるな」
「だから自業自得よ」
エリシアが笑った。
ノクトはまた何も言い返せなかった。
美しい料理が並ぶと、部屋の空気は一気に明るくなった。
ライナは目を輝かせながら、肉料理に箸を伸ばす。
そして頬いっぱいに頬張った。
「おいしい!これ、いくらでも食べられる!」
「ライナ、ゆっくり食べなよ」
「無理! おいしい!」
ノエルは雪のように冷えた果実酒を少しだけ口に含み、ほっとしたように微笑んだ。
「甘くて飲みやすい。疲れた体に染みるね」
エリシアも小さな杯を手に取り、上品に酒を口へ運ぶ。
普段より少し頬が赤く、表情も柔らかかった。
「悪くないわね。たまにはこういう時間も必要だわ」
ノクトは焼き魚を口に入れ、思わず目を細めた。
「うまいな……生きててよかった」
「言葉の重みが違うわね」
エリシアがそう言うと、ノエルもつられて吹き出した。ライナだけは何のことだか分かっていない様子だった。
湯気の立つ料理。
魔法で冷やされた酒。
久しぶりに響く、仲間たちの笑い声。
戦いの痛みも、旅の疲れも、この夜だけは少しだけ遠くへ消えていくようだった。
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