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魔王殺しノクト(旧救世の闇魔法)  作者: 藤原 光希
ネフェルナ一族のライナ編

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91話 父の手

今回もありがとうございました!

 ノクトとエリシアは、何度も神核へ立ち向かった。


 黒焔を放つ。


 聖剣の光を叩き込む。


 ノエルも倒れかけの身体で、もう一度だけ結界を張ろうとした。


 だが、どれも届かなかった。


 森羅覇神アルヴェルドは、あまりにも大きすぎた。


 攻撃を避けるだけで精一杯だった。


 立っていることすら、もう苦しい。


 誰も止められない。


 そんな絶望の中で、一人だけ前へ出る者がいた。


 セレフィナだった。


「セレフィナ!」


 セレーネが叫ぶ。


 けれどセレフィナは止まらなかった。


 震える足で、崩れた森の中を一歩ずつ進んでいく。


 白い頬には涙が流れていた。


 それでも、その瞳には恐怖だけではないものがあった。


 どうしても確かめなければならない。


 そう思っている目だった。


 セレフィナは森羅覇神アルヴェルドの前に立った。


 見上げるほど巨大な神核。


 岩と古樹と根でできた身体。


 深い翠色の瞳。


 枝分かれした冠。


 その姿は神々しく、そしてあまりにも悲しかった。


 セレフィナは両腕を広げる。


「もうやめて……」


 声はか細かった。


 けれど、確かに森に響いた。


「あなたの中に……いるのよね?」


 アルヴェルドの巨大な瞳が、ゆっくりとセレフィナを見下ろした。


 セレフィナの喉が震える。


「お父様……」


 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


 目の前にいるのは神核だ。


 地属性の根源に近い、神話に語られる存在。


 普通なら、見上げることすら怖い。


 声なんて届くはずがない。


 触れれば、一瞬で潰される。


 それでもセレフィナには、翠色の瞳の奥に見覚えのある光が見えた気がした。


 記憶がよみがえる。


 幼い頃のセレフィナは、父の大きな手に引かれて森を歩いていた。


 まだ今よりずっと小さくて、父の歩幅に追いつけない。


 何度も小走りになる。


 父はそのたびに足を止めて、困ったように笑ってくれた。


「森を歩くときは、急がなくていい」


 父の声が耳の奥に戻ってくる。


「木々は逃げない。風も水も大地も、ちゃんと待ってくれる。だからまずは森の声を聞きなさい。それがエルフに許された特権だ」


 セレフィナはその意味がよく分からなくて、父を見上げた。


「森ってしゃべるの?」


 父は笑った。


「ああ。耳で聞くんじゃない。心で聞くんだ」


 そう言って父は、幼いセレフィナの手を取った。


 古樹の幹に触れさせる。


 ひんやりとした木の肌。


 苔の匂い。


 葉が揺れる音。


 遠くで鳴く鳥の声。


 その全部が、幼いセレフィナには不思議で、優しくて、少し怖かった。


 次の記憶は、雨の日だった。


 雷に怯えて泣いていたセレフィナを、父は膝の上に乗せてくれた。


 外では嵐が森を揺らし、窓の向こうで枝が激しくしなっている。


「怖いか?」


 父が尋ねた。


 セレフィナは何度も頷いた。


 すると父は、彼女を包み込むように抱きしめてくれた。


「大丈夫だ。森は簡単には折れない。強い風に揺れても、根が深ければ立っていられる」


「セレフィナも?」


「ああ。セレフィナもだ」


 父は優しく髪を撫でてくれた。


「いつか怖いものに出会う日が来る。逃げてもいい。泣いてもいい。けれど本当に大切なものが目の前にある時だけは、根を張りなさい」


「根を張る?」


「そうだ。セレフィナの中にも、森と同じ強さがある」


 その声は、今でも胸の奥に残っていた。


 また別の記憶が走る。


 セレフィナが初めて幻術魔法に失敗した日。


 うまく術式を結べず、幻の花はすぐに崩れてしまった。


 悔しくて、泣きそうになった。


 けれど父は怒らなかった。


 ただ、崩れた幻の花を見つめて言った。


「美しいものは、失敗の中にもある」


「失敗なのに?」


「そうだ。何かを作ろうとした心が、まず美しい。上手くできるかどうかは、そのあとでいい」


 父はいつもそうだった。


 強い統領だった。


 森の民を導く者だった。


 時には厳しい判断も下した。


 けれどセレフィナにとっては、大きな手で頭を撫でてくれる、ただ一人の父親だった。


 記憶は次から次へと流れてくる。


 晴れた朝。


 父と母と三人で食卓を囲んだ時間。


 森の祭りの日。


 父が珍しく下手な歌を歌い、母に呆れられていた時間。


 訓練で転んだセレフィナを、父が黙って起こしてくれた時間。


 夜、眠れないセレフィナのために、古いエルフの物語を読んでくれた時間。


 誕生日に、小さな木彫りの鳥をくれた時間。


 そして、最後の記憶。


 ヴォルツの兵に連れていかれる父の背中。


 セレフィナは叫んだ。


 母も叫んだ。


 エルフたちも止めようとした。


 でも父は振り返り、ただ一度だけ微笑んだ。


「セレフィナ。森を頼む」


 その言葉を最後に、父は連れていかれた。


 それからずっと、セレフィナの時間は止まっていた。


 生きているのか。


 苦しんでいるのか。


 もう死んでしまったのか。


 知ることすら許されなかった。


 そして今。


 目の前にいる神核の中に、父がいる。


 証拠なんてない。


 確信と呼べるものでもない。


 それでも分かった。


 あの翠色の瞳の奥にある悲しみは、神のものではない。


 きっと父のものだ。


「お父様……私です」


 セレフィナは涙を流しながら、一歩前に出た。


「セレフィナです。あなたの娘です」


 森羅覇神アルヴェルドの巨大な腕が、ゆっくりと持ち上がった。


 周囲が凍りつく。


「セレフィナ!下がって!」


 彼女の母であるセレーネが叫ぶ。


 ノクトも駆け出そうとした。


 エリシアも聖剣を握りしめる。


 ライナはレオニルを抱えたまま、泣き腫らした目でセレフィナを見ていた。


 だが、誰も間に合わない。


 アルヴェルドの巨大な手が、セレフィナへ向かって下りてくる。


 あの手に触れられれば、セレフィナの身体など一瞬で潰れる。


 誰もがそう思った。


 それでもセレフィナは逃げなかった。


 涙に濡れた顔で、ただ父を見上げる。


「もういいの」


 声は震えていた。


「もう苦しまなくていいの」


 巨大な手が、セレフィナの頭上で止まった。


 ほんの少しだけ、空気が揺れる。


 そして、岩と根でできた指先が、信じられないほど優しくセレフィナの髪に触れた。


 幼い頃のように。


 泣いている娘を慰める父の手のように。


 セレフィナの顔が歪む。


「……お父様……」


 アルヴェルドの翠色の瞳が、静かに揺れた。


 神核は言葉を話さない。


 けれどその瞳の奥に、一瞬だけ確かに父の意識が戻った。


 巨大な神ではない。


 地属性の根源でもない。


 森羅覇神アルヴェルドでもない。


 そこにいたのは、娘を愛した一人の父だった。


 セレフィナは、その大きな指に両手を添える。


「ごめんなさい……助けに行けなくて……」


 声が崩れた。


「ずっと待っていたのに……お父様、ずっと苦しかったのに……」


 言葉が涙に詰まる。


「帰ってきてほしかった……。もう一度、森を一緒に歩きたかった……。もう一度、私の名前を呼んでほしかった……」


 アルヴェルドの巨大な瞳から、翠色の光が一筋こぼれた。


 それは涙のようだった。


 神核が泣いたのか。


 父の魂が泣いたのか。


 誰にも分からない。


 だがその場にいた者たちは、息をすることすら忘れていた。


 セレフィナの母は膝をつき、口元を押さえて泣いていた。


「あなた……」


 その声を聞いたのか、アルヴェルドの視線がゆっくりと母へ向く。


 巨大な翠の瞳が、母と娘を映した。


 その瞬間、アルヴェルドの身体に亀裂が走った。


 岩の肌が割れる。


 古樹の根がほどける。


 苔むした大地の身体から、翠色の光が漏れ始めた。


 セレフィナが目を見開く。


「いや……」


 アルヴェルドの手が、もう一度だけセレフィナの髪を撫でた。


 優しく。


 あまりにも優しく。


 まるで、泣かなくていいと伝えるように。


 まるで、よく生きてくれたと褒めるように。


 まるで、森を頼むともう一度だけ託すように。


「いやです……お父様……消えないで……!」


 セレフィナはその巨大な手にしがみついた。


 だが、崩壊は止まらない。


 指先が砂のように崩れ、翠色の光となって風に溶けていく。


 腕がほどける。


 肩が崩れる。


 枝分かれした冠が空へ散っていく。


 森羅覇神アルヴェルドは、もう暴走していなかった。


 神核としての力はほどけ、器にされていた父の魂が、娘の声で眠りへ帰ろうとしていた。


「お父様!」


 セレフィナの叫びが森に響く。


 アルヴェルドの瞳が、最後にもう一度だけ光った。


 その光の中に、セレフィナは見た気がした。


 父が笑っている。


 あの日と同じ優しい顔で。


 森を歩いていた頃と同じ穏やかな目で。


 そして声にならない声が、確かに胸に届いた。


 ――セレフィナ。生きなさい。


 次の瞬間、アルヴェルドの瞳が砕けた。


 巨大な身体は完全に崩れ、岩も、根も、古樹も、大地へ還っていく。


 翠色の光の粒が森全体に降り注ぎ、傷ついた木々を静かに照らした。


 森羅覇神アルヴェルドは消えた。


 暴走していた神核は、父の魂と、犠牲になった多くのエルフたちの魂と共に、静かに大地へ還っていった。


 セレフィナは、その場に膝をついた。


 両手の中には、小さな翠色の光の欠片だけが残っていた。


 父が最後に残してくれた、たった一つの温もりのようだった。


「お父様……」


 セレフィナはその欠片を胸に抱きしめる。


 もう返事はない。


 もう頭を撫でてくれる手もない。


 もう一緒に森を歩くこともできない。


 けれど父は最後に戻ってきた。


 神としてではなく。


 怪物としてでもなく。


 セレフィナの父として、最後に娘へ触れてくれた。


 セレフィナは声を殺せずに泣いた。


 母がゆっくりと近づき、娘の肩を抱く。


 二人は崩れた森の中で、父が消えた場所を見つめながら泣き続けた。


 ノクトはその光景を見つめ、手に力を込めた。


 森には翠色の光が降り続けている。


 傷ついた森を包むように。


 死んでいった者たちを悼むように。


 残された者たちへ、まだ生きろと告げるように。


 セレフィナは父の欠片を胸に抱きしめたまま、何度もその名を呼んだ。


 しかしもう、父は答えなかった。


 ただ森だけが、彼女の泣き声を優しく受け止めていた。

今回もありがとうございました!


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