9話 地底蠱王(ちていこおう)
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ザイモンはゆっくりと校庭へ踏み出した。
五十代半ばほどの男だった。
背は高く、痩せている。
頬はこけ、首から顔にかけて、乾いた大地のようなひびが走っていた。
土色の髪を後ろで束ね、濁った琥珀色の瞳だけがぎらぎらと熱を宿している。
笑うたびに口角が不自然に吊り上がり、喉の奥から乾いた息が漏れた。
「まさか、ザイモン様の邪魔をするのが貴様とはなぁ」
ザイモンはノクトを見て、楽しそうに笑った。
「冗談だろう?喰い千切ってやろうかぁ?」
ノクトは答えなかった。
ただ静かに剣を構える。
その沈黙が、ザイモンの狂った笑い声を余計に際立たせていた。
「さっきの戦い、見ていたぞぉ」
ザイモンは首を鳴らす。
「どうやら本当に魔法は使えないらしいなぁ。魔法も使わずに、このザイモン様に勝てるわけがないだろぉ?」
ノクトは黙ったままだった。
ライナはそのやり取りを見て、違和感を覚えた。
ザイモンはノクトを知っている。
ただ名前を知っているだけではない。
まるで、前から存在を知っていたような口ぶりだった。
(ノクトって、いったい何者なの……?)
そう思ったが、今は考えている余裕などなかった。
ザイモンから放たれる殺気が、これまでの敵とはまるで違う。
近づくだけで、胸の奥を握り潰されるような感覚があった。
「ライナ」
ノクトが小さく言った。
「護衛だけ頼む。深く入りすぎるな」
「……うん」
ライナはすぐに理解した。
目の前の男は、今までの相手とは格が違う。
まだ魔法すら見ていないのに、体が勝手に震えていた。
怖い。
そう思ってしまった自分が、少しだけ悔しかった。
「大丈夫だ」
ノクトは前を向いたまま言った。
「俺が皆を守る。だから今は、自分を守ることだけ考えてくれ」
その声は静かだった。
だけど不思議と、ライナの胸に届いた。
ライナは拳を握りしめる。
何に怯えているのか。
人を助ける。
物怖じしない。
それが自分のやり方だったはずだ。
「任せて、ノクト」
ライナは前を見た。
「アタシも必ずサポートするから」
ザイモンが腹を抱えて笑った。
体をねじらせ、顔を歪め、乾いた笑い声を校庭に響かせる。
「ハハハハハ!ザイモン様も舐められたものだなぁ!」
その声が一気に低くなる。
「殺してやる。殺してやるよぉ」
ザイモンの足元から、黒ずんだ土のマナが滲み出した。
「どうせ貴様、しょせんは黒翼将だと舐めているんだろう?」
地面がわずかに震える。
「だがなぁ、俺の力は六魔星にも劣らないぜぇ?」
ザイモンはライナへ視線を向けた。
「女は殺す。邪魔だからなぁ」
次にノクトを見る。
「貴様は生け捕りだ。魔王様に献上してやる。そうすれば、ザイモン様も出世だぁ!」
ライナは息を呑んだ。
魔王様に献上。
その言葉が気になった。
ノクトはただの旅人ではない。
ザイモンの口ぶりが、それをはっきり示している。
けれど、今はそれを問いただす場面ではなかった。
ザイモンの雰囲気が変わった。
笑っているのに、空気が重くなる。
大地そのものが、彼の足元で怯えているようだった。
「ライナ、来るぞ」
ノクトが言った。
「構えろ」
ザイモンは両腕を広げた。
そして低く、呪文を唱える。
「土穿血命」
校庭の地面が震えた。
「地底蠱王」
次の瞬間。
大地が悲鳴を上げた。
足元の土が泡立ち、ひび割れの中から黒い泥のようなものが噴き出す。
血でも泥でもない。
大地の奥に溜まった怨念のようなものだった。
ザイモンの肌が割れる。
乾いた音を立てて、体中のひびが広がっていく。
その内側から、黒い節足が突き破るように生えた。
「なっ……」
ライナが思わず息を呑む。
骨が軋む音がした。
背骨が波打ち、肉がうねり、人間だった輪郭が崩れていく。
外套の背中が裂けた。
そこから漆黒の脚が、一本、また一本と溢れ出す。
百本。
いや、それ以上。
黒鉄のような甲殻が全身を覆い、長い胴体が地面を這う。
やがて、そこに人間の姿はなかった。
巨大なムカデ。
それが、ザイモンの変わり果てた姿だった。
「見ろォ……」
ザイモンの声は、もはや人のものではなかった。
低く、濁り、地面の奥から響いてくるような声。
「この姿こそ、大地の真理だァ!」
ミレオは声を失った。
ゼルマンはミレオとアルトを庇うように立つ。
ライナは苦笑いを浮かべた。
「これは……ちょっとやばすぎないかな?」
冗談めかして言ったつもりだった。
けれど声は少し震えていた。
「殺してヤルゥ」
巨大ムカデと化したザイモンが、ゆっくりと近づいてくる。
「殺ス。殺スゾォ」
ノクトは剣を構えた。
冷静に見えていた。
だが、その内側では分かっていた。
これは簡単な相手ではない。
勝てるかどうかではない。
自分の後ろには、守らなければならない者たちがいる。
だから退けない。
やるしかない。
「ハハハハハァ!」
ザイモンが地面を這いながら笑った。
「剣士ヨォ!貴様ノ足場ハ、俺ノ体ダァ!」
その声が響いた瞬間、地面が爆発した。
足元から無数の黒い脚が伸び、ノクトの足を絡め取ろうとする。
ノクトは地面を蹴って跳んだ。
だが次の瞬間、背後の地中から別の節足が飛び出す。
ノクトは反射的に剣で弾いた。
重い。
ただの脚ではない。
岩の塊を叩きつけられたような衝撃が、腕に走った。
「くっ……!」
ノクトは後方へ転がり、すぐに体勢を立て直す。
だがザイモンの攻撃は止まらなかった。
地面から伸びる無数の節足。
左右から迫る牙。
頭上から降る岩の破片。
攻撃のすべてが、校庭全体から襲ってくる。
「ノクト!」
ライナが前へ出た。
拳に炎を宿す。
「紅蓮獅霊召喚!」
足元に紅い魔法陣が走る。
炎が噴き上がり、鬣を燃やす獅子が姿を現した。
「焔獅子乱舞!」
炎の獅子が咆哮し、ザイモンへ突進する。
紅蓮の爪が、巨大なムカデの胴体へ食らいついた。
轟音。
炎がザイモンの巨体を包み込む。
普通の魔物なら、そのまま焼き尽くされてもおかしくない熱量だった。
だが。
「ハハハハハァァァ!」
煙の奥から笑い声が響いた。
「ヌルイナァァァァ!」
ザイモンの体は燃えていなかった。
甲殻が鉄のように硬化し、炎を弾いていたのだ。
「嘘でしょ……!」
無数の脚が、炎を突き破ってライナへ襲いかかる。
ライナは拳で受け止めようとした。
だが衝撃が重すぎた。
「きゃっ!」
体が吹き飛ばされる。
ノクトがすぐに前へ出た。
剣を振るう。
ザイモンの甲殻に刃がぶつかり、硬い音が響いた。
斬れない。
ノクトは続けて斬撃を叩き込む。
一撃。
二撃。
三撃。
ようやく、黒い甲殻の一部が欠けた。
だが浅い。
致命傷にはほど遠かった。
ザイモンが巨大な牙を剥く。
ノクトは一瞬で距離を取った。
その直後、ザイモンの背から岩の棘が噴き出す。
それが矢のようにノクトへ降り注いだ。
ノクトは剣で捌く。
斬る。
弾く。
受け流す。
だが一本だけ、完全には避けきれなかった。
岩の棘がノクトの頬をかすめる。
薄い血が流れた。
「ノクト!」
ライナが叫ぶ。
ザイモンがさらに地面を叩いた。
大地が爆発し、土の波が津波のように押し寄せる。
ノクトは剣を前に構えた。
斬撃で土の波を割る。
だが衝撃は消えない。
爆風に押され、ノクトの足が後ろへ滑った。
「どうしたァ?」
ザイモンの声が校庭に響く。
「ノクトォォォ!魔法ハ使ワナイノカァ?」
巨大なムカデが、口を裂くように笑う。
「魔法ヲ使ワナイト、ザイモン様ニハ勝テナイゾォ?」
ノクトは頬の血を拭った。
そして剣を静かに構える。
呼吸を整える。
目の前の化け物を見る。
速さだけでは駄目だ。
力任せでも駄目だ。
硬い甲殻を斬るには、ほんの一点でいい。
そこに全てを通す。
ザイモンの脚が、槍のように突き出された。
ノクトは動かない。
ぎりぎりまで引きつける。
ライナが息を呑んだ。
次の瞬間。
ノクトの剣が閃いた。
風が裂ける。
ザイモンの脚が、半ばで止まった。
「ナニ……?」
遅れて、斬撃の光が走る。
巨大な脚が切り落とされ、地面に落ちた。
切り口は、鏡のように滑らかだった。
ザイモンの笑みが、初めて消えた。
ノクトは剣を下ろさない。
「魔法がなくても」
静かな声だった。
「斬れるものは斬れる」
校庭に、重い沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、ザイモンの喉の奥から低い笑い声が漏れた。
「ハ……ハハ……」
切り落とされた脚が、黒い泥のように溶け始める。
そして地面の中へ吸い込まれていった。
「面白イ……」
ザイモンの胴体がうねる。
地面が再び震え始めた。
「ならァ、もっと深く潜ッテヤルヨォ」
ノクトの足元に、無数の亀裂が走った。
ザイモンの巨体が、地中へ沈み始める。
消える。
校庭そのものが、敵の体になっていく。
「ノクト!」
ライナが叫ぶ。
ノクトは剣を握り直した。
地面の奥から、ザイモンの声が響く。
「次ハ、下カラ喰イ千切ッテヤルゥ」
大地が、静かに蠢いたのだった。
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