73話 森の外で出会った男
今回も読んで頂きありがとうございます!
レオニルは、少しずつ真実を語り始めた。
あの日。
レオニルは一人で森の外へ出ていた。
グリュネヴァルトの森の端には、切り株の残る荒れ地が広がっている。
昔は、大きな木がいくつも並んでいた場所だった。
だが今は違う。
木は切られ、土は赤茶け、森の匂いよりも乾いた埃の匂いの方が強くなっていた。
レオニルが向かっていたのは、森の端にある小さな交易場だった。
街と呼ぶには小さい。
けれど、森の民と外の人間が、物をやり取りする場所として昔から使われていた。
石畳もない土の道。
粗末な荷車。
木で組まれた小屋。
旅人や商人の声が混ざる、森と外の境目のような場所だった。
レオニルは最近、時々そこへ来ていた。
一族のために必要な物を見るため。
それも理由の一つだった。
けれど、本当はそれだけではない。
森の外の空気が、少しずつ変わっている気がしていた。
大きな争いが起きているわけではない。
それでも、森やエルフを見る人間たちの目に、前よりも嫌なものが混じるようになっていた。
長兄として、それを知らないままでいるわけにはいかなかった。
交易場の隅には、酒を出す粗末な店があった。
昼間から、何人かの男たちが樽を囲んでいる。
開拓の下働きらしい者。
流れ者の荒くれ者。
森に入って狩りをするような者たち。
レオニルは荷物を受け取るふりをしながら、その近くを通った。
「ったく、あの森は邪魔だな」
「木は多いし、道は悪いし、エルフの目もある」
「そのうち外からもっと人が来りゃ、森なんていくらでも切られるさ」
「そうなりゃ、耳の長い連中も、森の拳法家どもも偉そうにしてられねえだろ」
男たちが笑う。
レオニルの足が、わずかに止まった。
「ネフェルナの連中とか、気に入らねえんだよな」
「あいつら、妙に強ぇしな」
「今は森の中でおとなしくしてるけど、いつか面倒になるだろ」
「なら、今のうちに消えりゃいいのによ」
笑い声が広がった。
その瞬間、レオニルの拳が強く握られた。
胸の奥で火がつく。
血が熱くなる。
この距離なら一瞬だ。
三人まとめて地面に沈められる。
だが、ここは森の外だ。
ここで一人で騒ぎを起こせば、余計な火種になる。
ネフェルナ一族は危ない。
そういう噂に、自分から理由を与えることになる。
頭では分かっていた。
それでも、体は前へ出かけた。
「今はやめた方がいい」
すぐ横から、静かな声がした。
レオニルは反射的に振り向く。
道の脇の木陰に、一人の青年が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
長い黒の外套。
旅人のような服装。
派手な武器は持っていない。
だが、立っているだけで妙に周りから浮いて見えた。
歳は若い。
けれど、その目だけは不思議なほど落ち着いていた。
青年は男たちではなく、レオニルを見ていた。
「ここで殴れば、あいつらの言いたいことを証明してやるだけになるよ」
声は穏やかだった。
だからこそ、やけに耳に残った。
レオニルは警戒した。
「……あんたには関係ない」
「あるよ」
青年は薄く笑う。
「君がネフェルナの血を継ぐ者なら、なおさらね」
レオニルの目が細くなった。
「どうして俺がネフェルナ族だと分かった?」
「マナの色で分かるよ。ただ者じゃないってね」
さらりと言われ、レオニルの胸に小さな緊張が走った。
ただの旅人なら、そんなものは見ない。
「何者だ」
「通りすがり、と言ったら怒るかな?」
「当たり前だ」
「そうだよね」
青年は軽く肩をすくめた。
その間にも、酒場の男たちは好き勝手に話している。
「エルフもネフェルナも、森の中だけで生きてりゃいいんだよ」
「どうせ時代は変わる」
「変わったあとに邪魔なら、どかすだけさ」
レオニルの喉の奥が熱くなる。
次の瞬間、青年がほんの少しだけ男たちへ視線を向けた。
それだけだった。
ただ、それだけのはずだった。
だが、男たちの笑いが不意に止まる。
「……なんだ?」
「急に寒くねえか」
「風でも通ったか……?」
三人は落ち着かない様子で辺りを見回した。
何かを感じたようだった。
だがレオニルには、青年が何かしたようには見えなかった。
「行こう」
青年が言った。
「これ以上聞いても、気分が悪くなるだけだからね。ああいう連中は放っておけばいい」
レオニルはすぐには動かなかった。
それでも、あの場で男たちを殴り倒すよりはましだ。
そう判断して、踵を返した。
二人は交易場の外れまで並んで歩いた。
少し進めば、もう森へ戻る道だった。
大きな木々の枝葉が上を覆い、湿った土と苔の匂いが強くなる。
交易場のざらついた空気が、少しずつ遠ざかっていった。
森へ続く道の脇に、大きな石が一つある。
二人はそこで足を止めた。
風が葉を鳴らす。
遠くで鳥が鳴いている。
森はまだ静かだった。
何も壊れていない。
いつものグリュネヴァルトの森だった。
その静けさの中で、青年はぽつりと言った。
「外の空気は、もう少しで変わるよ」
レオニルの目が動く。
「どういう意味だ」
「森を切りたい者がいる。もっと土地を欲しがる者がいる。エルフを嫌う者がいる。強い一族を恐れる者もいる」
青年の視線が、まっすぐレオニルへ向く。
「恐れは、そのうち憎しみに変わる」
レオニルは答えなかった。
だが、その言葉を否定しきれなかった。
最近、外へ出るたびに感じる嫌な空気。
交易場で聞こえる声。
森の民を見る目。
それらが全部、青年の言葉とつながってしまう。
「君は、その変化に気づいている顔をしているね」
「知ったようなことを言うな」
「知っているわけじゃない。ただ、君が一人でここまで来る理由を考えれば分かるよ」
青年は淡く笑った。
「守りたいんだよね。いろいろ」
その一言が、レオニルの胸に深く刺さった。
長兄であること。
一族の子どもたち。
ライナ。
村。
森と共に生きる日々。
レオニルは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……あんたに何が分かる」
「全部は分からない」
青年は静かに答える。
「でも、君みたいな顔をした人間は嫌いじゃないよ」
軽い言い方だった。
それなのに、どこか本気にも聞こえた。
レオニルは青年の顔を見つめる。
敵意は感じない。
信用しきれるわけでもない。
だが、少なくともさっきの男たちとはまるで違う。
それだけは分かった。
「名前は」
ようやく、レオニルはそう聞いた。
青年は一瞬だけ黙る。
それから、口元を少しだけ緩めた。
「グレイ」
青年はそう名乗った。
そして、森へ続く道から少し外れた方へ歩き出す。
「またね」
その言葉を残して、黒い外套は木々の間へ消えていった。
レオニルは、しばらくその背を見つめていた。
ただの旅人ではない。
何かを知っている。
それでも、今すぐ敵だと決めつけることもできない。
奇妙な出会いだった。
だがその日、レオニルの胸に残ったのは警戒だけではなかった。
森の外で初めて、自分が抱えていた不安を言い当てられた。
そんな気がしたのだ。
それが、のちに一族を滅ぼす悲劇の入口になるとは。
この時のレオニルは、まだ知らなかった。
読んで頂きありがとうございました!
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