72話 罪と決意
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統領の館に用意された一室は、森の静けさに包まれていた。
白木で組まれた壁には、淡い青の灯りを宿す花がいくつも吊るされている。窓の外では夜風に枝葉が揺れ、その音がまるで遠い波みたいに小さく響いていた。館の中にいるというのに、まるで森そのものの中で眠っているような部屋だった。
部屋の中央には、柔らかな寝台が置かれている。そこにレオニルは横たわっていた。
額には汗が滲み、息は浅い。眠っているというより、苦しみの底へ沈められているような表情だった。
傍らの椅子にはライナが座っていた。両肘を膝に乗せ、ぎゅっと手を組んだまま、兄の顔をじっと見つめている。もうずいぶん長いこと、そうしていた。
ノエルの雪の精霊たちが、寝台の周りをふわふわ漂っている。傷と心を癒すために残しておいた精霊たちだ。小さな白い光は優しく、部屋の空気を少しだけ温かくしていた。
扉のそばにはノクトとエリシアもいた。二人とも黙ったまま、ライナの気持ちを邪魔しないように静かに見守っている。
「……まだ目を覚まさないね」
ライナが小さく呟く。
ノエルがそっと答えた。
「体の傷だけじゃないからね。たぶん心の方がずっと深いんだと思う。」
ライナは唇を噛んだ。
その言葉が分かってしまうからこそ、何も言えなかった。
レオニル兄さんは、ずっと一人で抱えてきたんだ。一族の殆どの者が滅んでしまったことも。自分だけが生き残ったことも。それでも魔王軍に逆らえず、グリュネバルト国の市長として生きていたことも。
兄がどれだけ苦しかったのか、ライナにはまだ全部は分からない。分からないことが多すぎる。けれど苦しんでいたことだけは、嫌というほど分かっているつもりだ。
そのときだった。
レオニルの指先が、ぴくりと動いた。
ライナが顔を上げる。
「……っ!」
次の瞬間、レオニルの身体がびくんと大きく跳ねた。
「やめろっ!!」
叫び声と同時に、レオニルが上体を起こした。
荒い息。
焦点の合わない灰色の瞳。
胸を押さえる手は震え、まるでまだ悪夢の続きの中にいるみたいだった。
「兄さん!」
ライナが立ち上がる。
だがレオニルは、ライナの顔を見てもすぐには現実を理解できないようだった。視線が泳ぐ。部屋の壁、揺れる灯り、白い花、雪の精霊――それらを見回し、ようやく自分が生きていることを少しずつ呑み込んでいく。
「……ここは……」
掠れた声だった。
「セレフィナの家だよ。森の中。もう大丈夫」
ライナができるだけ優しく言う。
レオニルはその声に反応して、ゆっくりとライナを見た。
赤い髪。
まっすぐな瞳。
泣きそうなのを我慢している顔。
その姿を見た瞬間、レオニルの表情が凍った。
「……ライナ」
その名を口にした途端、彼の顔から血の気が引いた。
思い出してしまったのだ。
覇拳闘宴。
仮面の少女。
決勝。
外れた仮面。
自分が苦しみのまま妹に拳を向けたこと。
そして――もっと前のこと。
フェルナ村。
呼び集められた一族。
信じていた言葉。
笑っていた者たち。
燃える炎。
崩れる家。
血の匂い。
誰かの叫び声。
レオニルの呼吸が一気に乱れる。
「っ……う……」
両手で顔を覆う。
指の隙間から、喉を押し殺すような声が漏れた。
「俺は……俺は……!」
ライナが一歩近づこうとする。
だがレオニルは、その気配だけで怯えたように肩を震わせた。
「来るな……!」
部屋の空気が張り詰めた。
ライナの足が止まる。
ノエルが不安そうに目を揺らし、エリシアは黙って様子を見つめていた。
ノクトだけは、何も言わずにレオニルを見ていた。
レオニルは顔を覆ったまま、歯を食いしばる。
「俺が……呼んだんだ」
声は震えていた。
「グラヴィルに言われたんだ……一族のみんなを集めろって。大事な話があるって……ネフェルナの未来のためだって……俺は、それを信じた……!」
指の隙間から、涙がぽたりと落ちる。
「俺が呼ばなければ……みんな、あんな場所に集まらなかった……! 父さんも、母さんも、子どもたちも……ライナを可愛がってた皆も……死ななかったかもしれない……!」
部屋の中が静まり返る。
それは告白だった。
ずっと胸の底で腐り続けていた罪を、自分の手でやっと引きずり出した告白だった。
「俺が騙されたせいで、一族は滅んだんだ……!」
レオニルは寝台の上で身体を折り曲げる。
誇り高かったはずの長身が、今はひどく小さく見えた。
「俺は兄なのに……守るどころか、売ったんだ……!
自分の手で、家族を殺したのと同じだ……!」
「違う!」
ライナの声が、部屋を強く打った。
レオニルがびくりと震える。
ライナはもう迷わなかった。
そのまま寝台のそばまで歩き、俯く兄の肩を掴んだ。
「違うよ兄さん! それは兄さんが悪かったんじゃない!」
「……っ」
「悪いのは魔王軍だよ!兄さんを騙したあいつだよ!本当に悪いのは一族を皆殺しにした魔王軍!絶対に兄さんじゃない!」
レオニルは首を振る。
「違わない……! 俺が愚かだったんだ……! あんな言葉を信じて、みんなを――」
「じゃあアタシも許さない!」
ライナの目から、とうとう涙がこぼれた。
「兄さんが自分をそんなふうに言うなら、アタシだって許さない!だってアタシは、ずっと兄さんに会いたかった!生きててほしかった! それなのに兄さんが自分のことを罪人みたいに言ったら、アタシはどうしたらいいの!」
レオニルの瞳が揺れる。
ライナは涙を拭きもせずに続けた。
「兄さんはネフェルナの皆を売ってなんかない。アタシはずっと孤独だった。ネフェルナの皆がいなくなっちゃった。でも兄さんが生きててくれた。これがどんだけ嬉しいことか兄さんには分からない!」
「……ライナ……」
「一族のこと、全部なかったことにはできないよ。アタシだって悔しい。許せない。苦しいよ。兄さんが騙されてたって知っても、全部すぐに平気にはならない」
ライナは震える声で、それでもはっきりと言った。
「でも、それでも兄さんはアタシのお兄ちゃんだよ」
その一言が、レオニルの最後の堤防を壊した。
顔を覆っていた手が落ちる。
灰色の瞳から、大粒の涙が溢れた。
「……っ、う……っ……」
声にならない嗚咽。
何年も何年も押し殺してきた後悔が、ようやく壊れたみたいに溢れ出していた。
「ごめん……ライナ……ごめん……!」
レオニルは泣きながら何度も謝った。
兄として。
生き残った者として。
騙されてしまった者として。
何ひとつ守れなかったと思い込んできた男として。
ライナはそんな兄を、強く抱きしめた。
「もういいよ……もう、一人で抱えなくていいから……」
その声は、子どもの頃のライナのままだった。けれどもその抱擁は、もう幼い妹のものじゃなかった。いくつもの戦いを越えてきた仲間であり、同じ痛みを背負う生き残りのものだった。
ノエルは目を潤ませながら、そっと雪の精霊たちを近づけた。
小さな光が兄妹の周りを優しく舞う。
エリシアは静かに目を伏せる。その表情には、ほんのわずかに柔らかい色があった。
そしてノクトは、しばらく黙っていたあと、低い声で言った。
「レオニルさん。あなたが背負ってきた罪悪感は消えないかもしれない」
レオニルが涙に濡れた顔を上げる。
「でも背負ったまま戦うことはできる」
ノクトの赤い瞳は、静かだった。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ同じものを知る者の目だった。
「消えないものを抱えたまま、前に進むしかない。」
ノクトは全て分かっていた。この悲惨な状況を作り出したのは魔王軍だ。自分の父だ。自分がレオニルにこんな偉そうなことを言える資格はない。そんなことは分かっていた。しかしそれでも、ノクトは目の前で絶望と戦う者に対して、何か力になるような言葉を五里霧中に探したのだった。
レオニルはノクトの言葉を聞いて、目を見開いた。
目の前の男もまた、誰より重い罪を背負って立っていることを、その声音だけで理解したのだ。
長い沈黙のあと、レオニルは震える手で涙を拭った。
「……俺は、もう逃げたくない」
その言葉は弱々しかった。
だが確かに、自分の意志で絞り出した声だった。
「グラヴィルにも……ヴォルツにも……俺はずっと従うことでしか生きられなかった。でも、もう嫌だ」
ライナが兄を見る。
レオニルは、妹の瞳をまっすぐ見返した。
「フェルナ村で何があったのか。俺が知ってることを全部話す
そして……今度こそ戦いたいんだ。」
ライナの瞳が大きく揺れた。
それから、泣き笑いみたいな顔で何度も頷く。
「うん……うん……!」
部屋の外では、森の夜風が静かに木々を揺らしていた。
失われたものは戻らない。
犯してしまった過ちも、消えることはない。
それでも。
長い悪夢の底で立ち止まり続けていた時間が、ようやく少しだけ動き始める。
レオニルは妹の手を握り返した。
その手はまだ震えていたが、もうさっきまでみたいな絶望の震えではなかった。
罪を抱えたまま、それでも前へ進もうとする者の震えだった。
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