71話 幻術の森
今回も読んで頂きありがとうございます!
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ヴォルツたちが空の向こうへ消えたあと、闘技場には重い静けさだけが残っていた。
砕けたリング。
凍りついた水の残骸。
焦げた空気。
さっきまで観客たちの歓声で揺れていた場所とは思えないほど、辺りは静まり返っていた。
ノクトたちはすぐにセレフィナのもとへ駆け寄った。
「大丈夫か?」
ノクトが尋ねると、セレフィナは小さく頷いた。
「ええ。助けてくれてありがとう」
幸い、セレフィナに大きな傷はなかった。
エリシアが彼女の体を確認し、ほっと息を吐く。
「怪我はないみたいね。よかったわ」
一方、ライナは倒れたレオニルのそばに膝をついていた。
レオニルは気を失っている。顔色は悪く、呼吸も浅い。ゲンスイの砂時計に苦しめられた影響が、まだ体に残っているようだった。
「兄さん……」
ライナの声が震える。
ノエルが静かに前へ出た。
「僕が運ぶよ」
ノエルが手をかざすと、小さな雪の精霊たちが現れた。
雪の精霊たちは、ふわふわとレオニルの周りに集まり、彼の体を優しく抱え上げる。
まるで冷たい雪雲の上に寝かせるように、レオニルの体はゆっくりと浮かび上がった。
「命に別状はなさそう。でも、心と魔力の消耗が激しい。しばらく安静にした方がいいよ」
「ありがとう、ノエル」
ライナは小さく頷いた。
ノクトは壊れた闘技場を見渡す。
「これからどこに向かえばいいんだ?そもそもヴォルツはどこにいる?」
一瞬、誰も答えられなかった。
ヴォルツは逃げた。
ライゴウとゲンスイも連れていかれた。
このまま追いたくても、向かう場所が分からない。
その時、セレフィナが口を開いた。
「ヴォルツは、グリュネヴァルトの森の中に王宮を構えているわ」
ノクトたちはセレフィナを見る。
「でも、その王宮は外からは見えないの。たくさんのエルフがヴォルツに脅されて、幻術魔法で隠しているから」
「幻術魔法……」
エリシアが眉を寄せる。
「厄介ね」
ノクトも頷いた。
「ああ。幻術魔法は使える者が少ない。その分、俺たちにも耐性がない。まずは、その幻術を破らないと王宮には辿り着けないってことか」
「エルフの幻術なら、私の母なら破れるかもしれない」
セレフィナは静かに言った。
「私の母は、エルフの中でも名高い幻術魔法使いなの」
ライナが顔を上げた。
「本当だ。セレフィナのお母さんとお父さんの幻術、すごかったもんね」
セレフィナは頷く。
「でも、お父様はヴォルツの王宮に捕らえられているの」
その声が、少しだけ揺れた。
「だから……お父様を助けてほしい」
セレフィナはノクトを見た。
碧の瞳には、涙がたまっていた。
ノクトはまっすぐに頷く。
「任せてくれ。俺たちが必ず、セレフィナのお父さんを助ける」
「ありがとう……」
ひとまず、ノクトたちはセレフィナの案内で、森の中にあるエルフたちの住まいへ向かうことにした。
セレフィナを先頭にして、ノクトたちはグリュネヴァルトの森の奥へ入っていく。
開拓地の騒がしさは、少し進むだけで嘘のように遠ざかっていった。
切り株だらけだった大地は、やがて湿った土と深い緑に変わる。
見上げれば、古い木々の枝葉が何重にも重なっていた。昼だというのに、森の中は薄暗い。風はひんやりとしていて、さっきまで闘技場に満ちていた血と焦げた匂いを、少しずつ洗い流してくれるようだった。
セレフィナは先頭を歩く。
拘束は解かれたが、手首にはまだ赤い跡が残っていた。それでも彼女は弱った様子を見せない。枝をかき分け、迷いなく獣道を進んでいく。
ライナは、雪の精霊に支えられたレオニルを振り返った。
「兄さん……」
レオニルはまだ目を覚まさない。
苦しげな表情だけが、砂時計の呪いの深さを物語っていた。
ノクトの表情も晴れなかった。
ヴォルツは逃げた。
王宮の場所も幻術で隠されている。
急がなければならない。だが、無理に突っ込めば今度こそ全滅しかねない。
ヴォルツは最終兵器があると言っていた。
あの言葉も、ただのはったりではないはずだ。
そんな重い空気を切るように、セレフィナが振り返った。
「もうすぐよ」
その声は静かだった。
けれど、芯があった。
少し進むと、森の景色が変わった。
巨大な古木の幹と幹を渡すように、白い木の回廊が枝の上へ伸びている。
幹に寄り添うように造られた家々は、まるで森の一部のようだった。壁は蔦と木板で編まれ、窓辺には淡く光る花が揺れている。
人が森を切って作った村ではない。
森そのものが、静かにエルフたちを抱いているような場所だった。
ノクトは思わず息を呑む。
「……すごいな」
「ここが、私たちの集落よ」
セレフィナはそう言って、森の中ほどにそびえるひときわ大きな樹を見上げた。
その大樹の中腹には、他の家々よりもずっと大きな館があった。
枝と枝をつなぐ橋の先に建つその館は、豪華というより神聖だった。
白銀の木肌を削り出したような柱。
蔦で編まれた欄干。
窓辺を飾る薄青い花。
森の気配を壊さず、それでもここが集落の中心だと分かる佇まいだった。
「これが、私の家」
そこは、統領の館だった。
ライナが目を丸くする。
「やっぱりセレフィナって、すごい人だったんだね」
セレフィナは少し困ったように笑った。
館の前に着くと、二人の若いエルフが弓を構えて飛び出してきた。
だが、セレフィナの姿を見た瞬間、二人は目を見開く。
「セ、セレフィナ様……!?」
「ご無事だったのですか……!」
二人は慌てて膝をついた。
セレフィナは静かに手を上げる。
「頭を上げて。今は礼より先に、皆を集めて。急ぎの話があるわ」
その声に迷いはなかった。
若いエルフたちはすぐに立ち上がり、森の奥へ駆けていった。
ノクトは小さく息を吐く。
「さっきまで捕まっていたのに、戻った瞬間に統領の娘の顔だな」
セレフィナは前を向いたまま答えた。
「泣くのは後にするわ。今は森を守らないといけないから」
その言葉に、ライナが強く頷いた。
「うん。アタシも手伝うよ」
やがて館の広間に、森のエルフたちが集まり始めた。
老人。
戦士。
若い母親。
幼い子どもを抱いた者。
皆、セレフィナの無事に安堵していた。だが、その後ろにいるノクトたち人間と、気を失ったレオニルの姿を見ると、不安げにざわめいた。
そのざわめきを、セレフィナが一歩前に出て静める。
「聞いて」
広間が静まり返った。
「お父様は、まだヴォルツの王宮に囚われています。そしてヴォルツの城は、外からは幻術で隠されている」
何人かのエルフが顔を曇らせる。
「ですが、希望はあります」
セレフィナは、ノクトたちを振り返った。
「ここにいる人たちは、私を助けてくれました。そして、ヴォルツを倒すために戦ってくれます」
エルフたちの視線が、一斉にノクトたちへ集まる。
ノクトは少したじろいだ。
けれど、セレフィナはまっすぐ前を向いたままだった。
「私は統領の娘として命じます。森を守る者たちは、この方々に力を貸してください」
広間に緊張が走った。
すぐには返事がない。
人間を信じていいのか。
しかも、今会ったばかりの人間を。
ためらうのは当然だった。
その沈黙を破ったのは、一人の老いた女性エルフだった。
長い白銀の髪を背に流し、瞳には深い青の光を宿している。衣は質素だったが、彼女が歩くだけで広間の空気が静かになる。
セレフィナが息を呑んだ。
「……お母様」
彼女こそ、セレフィナの母。
森のエルフたちの中でも屈指の幻術魔法使いであり、統領の妻だった。
セレフィナの母は、静かにノクトたちを見つめる。
そして、娘へ視線を戻した。
「セレフィナ。あなたは自分の意志で、この者たちをここへ連れてきたのですね」
「はい」
「その責任を背負う覚悟はありますか」
「あります」
短い問答だった。
だが、その一言一言には重みがあった。
やがて、セレフィナの母は小さく頷いた。
「ならば、私はあなたの判断を支持します」
その一言で、広間の空気が少し変わった。
エルフたちのざわめきが静まり、代わりに張り詰めた決意が広がっていく。
セレフィナの母は、今度はノクトを見た。
「あなたは、普通の人間ではありませんね」
ノクトの体がわずかに強ばる。
「私にはマナの色が見えます。あなたのマナには、大きな罪の影が染みついている」
広間の視線が、ノクトに集まった。
ノクトは黙っていた。
「けれど、同時に分かります。あなたはその罪から逃げようとしているのではない。背負ったまま、何かを救おうとしている」
セレフィナの母は、静かに続けた。
「あなたが本当にこの森を救う意志を持つなら、私は幻術を破る力を貸しましょう」
ノクトは一歩前に出て、深く頭を下げた。
「お願いします」
セレフィナの母はゆっくりと頷く。
「ですが、簡単ではありません。ヴォルツの王宮を隠す幻術は、複数のエルフを脅して維持させている大規模な術です」
エリシアが眉を寄せた。
「それを破るには、どうすればいいの?」
「森の見えない道を辿り、幻の核を一つずつ外さなければなりません」
「つまり、真正面からは行けないのね」
「ええ」
セレフィナの母は頷いた。
「森を知らない者が進めば、同じ場所を永遠に歩くことになるでしょう」
ノエルが小さく呟く。
「迷宮みたいだね……」
セレフィナの母は、ノクトたちを見渡した。
「今夜は休みなさい。準備は徹底しなければなりません。計画を立て、全員の状態を整えてから、私はあなたたちを幻の入口まで導きます」
グリュネヴァルトの森の夜は深い。
けれど、その静けさの奥で、次に向かうべき場所ははっきりしていた。
ヴォルツの王宮。
幻術に隠された、森の奥の敵地。
そこに、セレフィナの父がいる。
そこに、フェルナ村の真実がある。
ノクト、エリシア、ライナ、ノエル。
四人はそれぞれの思いを胸に、次の戦いへ向けて静かに決意を固めた。
これからも末長くよろしくお願いします!
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