27話 国葬の日
国葬の日。ザルベック王都の空には、その日、どんな旗もはためいていなかった。勝利の旗も、降伏の印も、征服者の紋章も。
長いあいだ城の塔に突き立っていた魔王軍の黒旗は、すでに打ち倒されている。だが代わりに掲げられるはずの王国旗も、今日はあえて揚げられていなかった。
城門前の広場は、まだ戦いの傷跡を色濃く残していた。崩れた石壁。黒く焦げた石畳。魔導の炎に焼かれ、ただの瓦礫と化した噴水。その全てが、掃き清められ、泥と血の跡だけは徹底的に洗い流されている。
ここはザルベックの心臓。かつて祭りの日には、麦酒の樽と音楽と笑い声で溢れかえった場所。そして今は、静寂に満ちていた。どこを見ても黒い喪章が目に入る。
喪服を持たない者は、粗末な服の腕に黒布を巻いていた。農夫も、職人も、兵士も、子どもたちも――誰もが同じ布を巻き、同じ方向を見つめている。
広場の中央には、二つの棺が並んでいた。一つは、ザルベックの前王――バルザック・バルネスの棺。素朴な木材に、薄い金の帯が一周だけ巻かれている。荘厳だが、贅沢ではない。その蓋の上には王家の紋章と、その中央に束ねられた黄金色の麦の穂、そして使い込まれた一本の剣が横たえられていた。
もう一つは、老騎士ゼルマンの棺。装飾は殆どない、黒木の箱。その上に載るのは磨き込まれた一振りの槍と、長い年月を戦場で歩き続けた軍靴だけだ。
バルザック王の棺の中身は空だった。バルザック王の遺体は、ヴァルグランの魔法で灰となったからだ。
棺の後ろには、巨大な板がいくつも連なって立てられている。びっしりと並んだ白い札。その一枚一枚に名前が書かれていた。ザルベックで死んだ者たちの名前だ。
兵士、農民、商人、職人。城で働いていた女中、門番、書記官。赤子、老人、名もない旅人。
「名前の分からない少女」
「城壁下で倒れていた兵士」
そんな札も少なくなかった。誰にも看取られずに死んだ者たちは、それでもここに、たしかに刻まれている。更にその一角には、黒い学生服の袖に喪章を巻いた若者たちが整列していた。生き残ったヴェルノア学園の生徒たちだ。彼らの後ろには、空の椅子がいくつも並んでいる。
そこに座るはずだった生徒たち、教師たちのための椅子だ。背もたれには、小さな名札が下げられていた。
――火の授業で、誰より先に手を挙げた少年。
――毎朝、図書室の扉を開けるのが日課だった少女。
――落ちこぼれの生徒を最後まで見捨てなかった、気弱そうな教師。
ヴェルノアは多くを失った。だが、 その名前は一つもここからこぼさせない。
列の中ほどで、一人の女生徒が拳を握りしめていた。喪章を巻いた腕の下で、指が白くなる。彼女は、自分の前に立っている“空の椅子”から、目を逸らせなかった。
そこに下がった名札には、短い文字が記されている。――フィル。
同じクラスだった生真面目な少年の名だ。いつも教科書をきっちり机の端に揃え、女生徒の雑なノートを見ては眉をひそめていた。
決して強くはなかったが、魔法の理論だけは誰よりもよく覚えていて、彼女や他の友人たちに何度も教えてくれた。
(どうしてあんたみたいな優しい魔法使いが死んじゃわなきゃいけないのよ‥‥‥)
アルトは静かに目を閉じている。ヴェルノア学園主席の青年のは、いつもよりもずっと小さく見えた。彼の視線の先にも、同じように名札がぶら下がっている。
――先生たちの名前。
――一緒に風車を回して笑っていた友人たち。
アルトは唇を噛む。自分の風魔法で全てを吹き飛ばせたらどれほど楽だろう。魔法で人は生き返らない。失った人たちは戻ってこない。
広場の少し離れた場所で、ノクトは人混みの端に立っていた。フードを深くかぶり人の波にまぎれながらも、視線だけは壇の中央から離さない。
前王の棺。そして、名前で埋め尽くされた板。
(……俺の家族が、この人たちから奪ったものだ)
父が築き、兄が率いた魔王軍。その尖兵として、何度も村を焼き払い、城を落とし、抵抗する者たちを斬り捨ててきた軍勢。その結果が今目の前にある。
ノクトの胸の奥で、闇が渦を巻く。それは魔力ではない。もっと生々しい、自責と憎悪と、どうしようもない悔しさだった。
彼から少し離れた場所に、エリシアも立っていた。白のドレスの上から、黒いケープを羽織っている。彼女の視線もまた、棺と板へと向けられている。
自分の家族を奪った魔王軍。焼かれた城。倒れた兵たち。そして――もう戻らない家族。憎しみは、消えていない。自分がいつか必ず魔王軍を粛清する。滅ぼしてみせる。彼女の決意は固かった。
王を奪われ、騎士を奪われ、生徒を奪われ、家族を奪われた国。ザルベックは、エリシアの故郷であるルミナシア帝国とは別の場所で、同じ痛みを抱えている。
――この日は、国葬であり、追悼式だった。
バルザック王とゼルマンという、国の象徴となる二人のための葬儀。そして同時に、ザルベックの名を持って生き、魔王軍によって殺された者たち全てを悼む式。
鐘が鳴った。城の塔から外され広場に下ろされた古い鐘を、兵士が両手で押し揺らす。甲高くはないが、よく響く音が空気を震わせる。
麦畑と川辺と森から人々を集めてきた、素朴な鐘の音だ。
やがて、司祭が棺の前へ進み出る。白い衣の胸には、四つの小さな宝珠――火、風、土、水を象徴する宝玉が輝いていた。
四属性の灯火が、棺の周りで揺れている。魔法の灯り。だがその光はところどころで心許なく瞬き、今にも消えそうだった。
その灯を支えているのは、ヴェルノアの生徒たちだった。 彼らは額に汗を滲ませながら、震える手で術式を維持している。
魔力が足りない者の肩に、隣の生徒がそっと手を置き、分け与えるように魔力を流し込む。
灯が弱まるたび、水面に波紋が走るように、若い魔力が重なり合った。
「――静まれ」
司祭の声が、風を裂いた。人々のざわめきがすっと消え、広場全体が祈りの言葉を待つ。
長い祈りのあと、司祭が一歩退いた。代わって前へ押し出されるのは、小さな足音だ。
ミレオ・バルネス。
王家の礼服にはまだ慣れない少年が、その日だけは背筋をまっすぐに伸ばしていた。




