132話 死者の国
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ノクトたちがまだセレナリアにいる頃。
一つの国がアンデッドたちに支配されようとしていた。
「はぁ……はぁ……!」
一人の女性が、荒れ果てた大通りを必死に走っている。
その背後を小さなゾンビが追いかけていた。
青白く変色した肌。生気を失った瞳。小さな口からは、かすかなうめき声が漏れている。
歩みは遅く、何度もふらついていた。
それは数日前まで、女性の腕の中で笑っていた三歳の息子だった。
「来ないで……お願いだから、来ないで……!」
女性は涙を流しながら逃げ続ける。
頭では分かっていた。
あれはもう、自分の知っている息子ではない。
それでも、振り返るたびに胸が引き裂かれそうになった。
そのとき、息子が石につまずいた。
小さな身体が地面へ倒れる。
「あっ……!」
女性は思わず足を止めた。
「大丈夫!?」
母親としての言葉が、考えるより先に口から出ていた。
倒れた息子を見つめた瞬間、幸せだった日々が蘇る。
初めて歩いた日。
転んで泣く息子を、何度も抱き上げたこと。
『おかあさん』
初めてそう呼んでくれたときの、あの笑顔。
「ごめんね……怖かったよね」
女性は息子のもとへ駆け寄り、その小さな身体を抱きしめた。
「一人にして、ごめんね……!」
もう一度だけ、母親として抱きしめたかった。
その瞬間、息子が女性の肩に噛みついた。
「――っ!」
鋭い痛みが走る。
それでも、女性は息子を突き放せなかった。
「大丈夫……お母さんも、一緒にいるからね」
震える腕で我が子を強く抱きしめる。
やがて女性の肌にも黒い血管が浮かび、瞳から光が消えていった。
しばらくして、母と子はゆっくりと立ち上がった。
二人の瞳に、かつての面影は残っていない。
寄り添うように並び、無数のアンデッドがさまよう大通りへ歩いていく。
そこを埋め尽くしていたのは、かつてこの国で暮らしていた人々だった。
青白く変色した肌には黒い血管が浮かび、光を失った瞳のまま、壊れた人形のように歩き続けている。
兵士も、商人も、逃げ遅れた住民も、すでに自分の意思を失っていた。
六魔星ネクロシアの死霊魔術は、生きている人間さえアンデッドへと変えてしまう。
そして噛まれた者が新たなアンデッドとなり、次の誰かへ襲いかかる。
国は今、死者の群れによって静かにのみ込まれようとしていた。
街の中心には、白い石造りの王宮がそびえている。
かつては国の繁栄を象徴していた宮殿も、今では黒い霧に包まれ、門の前にはアンデッドとなった騎士たちが並んでいた。
その最奥にある王室。
奪われた玉座には、六魔星グラヴィルが腰を下ろしていた。
その視線の先では、ネクロシアが捕らえられた市民たちを次々とアンデッドへ変えている。
ネクロシアは、腰まで届く濡れたような黒髪を垂らした女だった。
死人のように青白い肌と、深く落ちくぼんだ紫色の瞳。
薄い唇には不気味な笑みが浮かび、立っているだけで周囲の空気が腐ったように冷えていく。
六魔星の一人にして、生者すらアンデッドへ変える死霊魔術の使い手だった。
アンデッドからアンデッドを増やすこともできる。だがネクロシアが魔法で生み出したアンデッドはより魔力が強力になる。そのためにネクロシアは自らアンデッドの生成を行っていた。
ネクロシアの前には、捕らえられた市民たちが長い列を作っている。
老人も、若者も、幼い子どもを抱いた母親もいた。
「嫌だ!助けてくれ!」
「お願い……この子だけは!」
泣き叫ぶ声が絶え間なく響く。
しかし、列の両側に立つアンデッドたちは、容赦なく市民を前へ押し出した。
ネクロシアが、一人の額に指先を触れる。
黒い霧がその身体を包み込んだ。
「あ……ああっ……!」
市民の肌が青白く変わり、瞳から光が消えていく。
つい先ほどまで泣き叫んでいた者が、何も言わずに立ち上がった。
そして新たなアンデッドとなり、仲間を増やすために街へ向かって歩き始める。
それでも、列は途切れない。
次の市民が、震えながらネクロシアの前へ引きずり出された。
グラヴィルは満足そうに眺めていたが、やがて玉座から立ち上がった。
ネクロシアのもとまで歩み寄り、その長い髪に優しく触れる。
「僕の愛しいネクロシア」
グラヴィルは彼女の頬に口づけた。
「大変だろうけど、もう少し頑張ってね。二人だけの世界を作るためだからさ」
「うん……」
ネクロシアは静かに頷いた。
「魔王軍を倒すには、もっと兵が必要だ。近いうちにゼルクも動き出すだろうからね」
グラヴィルは市民たちの列を見渡し、笑みを深める。
「だから、ネクロシアにはもっと働いてもらわないと」
その言葉に、ネクロシアの表情がわずかに曇った。
彼女は何日も休まず、限界まで魔力を使い続けていた。
意識を失って倒れたことも、一度や二度ではない。
立っているだけでも身体が震え、青白い顔からはさらに血の気が失われている。
グラヴィルもその不満と疲労に気づいていた。
それでも休ませようとはしなかった。
代わりにネクロシアの身体を抱き寄せ、その唇に優しく口づける。
「ネクロシア。愛しているよ」
「グラヴィル……」
「すべては二人の未来のためだ。一緒に頑張ろう」
ネクロシアの頬が赤く染まった。
「うん……分かった」
それだけ答えると、彼女は再び市民へ手を伸ばした。
黒い霧が広がり、また一人の人間から意思と命が奪われていく。
グラヴィルは上機嫌で玉座へ戻った。
頬杖をつきながら、アンデッドが生み出されていく様子を楽しそうに眺める。
「世界征服も夢じゃないね」
王室に響く悲鳴を聞きながら、グラヴィルは笑った。
「ゼルクさえ殺してしまえば、この世界は僕のものだ」
しかし、その笑みがわずかに薄れる。
「あと邪魔なのは、ノクティルか。今の魔王より、あいつのほうがよほど厄介だからね」
一方、その頃。
ノクティルは、夢と現実の狭間にある世界にいた。
そこには空も大地も存在しない。
白でも黒でもない無彩の空間に、鏡のような水面だけが果てしなく広がっている。
足を進めるたび、音のない波紋が幾重にも広がった。
その先に、一人の女神が立っていた。
光を反射せず、影さえ落とさない無彩の身体。
長い髪と衣だけが、水の中を漂うように静かに揺れている。
生と死。
光と闇。
その境界に立つ存在――冥澄の女神。
ノクティルは女神の背中を見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
「ようやく、お会いできましたね」
女神は答えない。
ただ、その閉じられていた瞳が静かに開いた。
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