110話 帰れない姉
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セラフィーヌはアルベールの体を静かに床へ横たえた。
父の血に濡れた手を拭うこともなく、ゆっくりと立ち上がる。
「セラフィーヌ……?」
マリアが不安そうに娘を見上げた。
「どこへ行くのですか?」
「父さんをこんなふうにした奴らのところ」
「待ちなさい」
「どいて、母さん」
セラフィーヌは扉へ向かう。
マリアは慌てて立ち上がり、その腕をつかんだ。
「行かせません」
「離して」
「今のあなたは冷静ではありません」
「冷静でいられるわけないでしょ!」
セラフィーヌの叫びとともに、床を白い霜が走った。
「あいつらは、父さんから全部奪った!仕事も、誇りも、私たちと生きようとする気持ちまで!」
「だからといって、誰かを殺してよい理由にはなりません」
「私に父さんを殺させたのよ!」
マリアの表情が凍りついた。
セラフィーヌも、自分の口から出た言葉に息を詰まらせる。
父の胸を貫いた感触が、まだ両手に残っていた。
「殺したのは……私よ」
震える声で続ける。
「分かってる。私が、この手で父さんを殺した」
「セラフィーヌ……」
「でも、父さんをあそこまで追い詰めたのは、あいつらよ」
セラフィーヌは、父の血に染まった手を強く握り締めた。
「何もなかった顔で暖かい家に帰って、笑って眠ってる。そんなの、絶対に許せない」
「復讐しても、お父さんは戻りません」
「戻らないから許せないのよ!」
セラフィーヌは、マリアの手を振りほどいた。
「あなたまでいなくなったら、私とノエルはどうすればいいのですか?」
その言葉にセラフィーヌの足が止まる。
「これ以上、その手を血で汚してはいけません」
セラフィーヌは床に横たわる父を見た。
「もう汚れてるわ」
「それでも、まだ戻れます」
「戻れない」
セラフィーヌは小さく首を横へ振った。
「私はもう、父さんを殺す前の私には戻れない」
「姉さん……」
背後から、小さな声が聞こえた。
ノエルが立ち上がり、怯えた目でセラフィーヌを見ている。
「姉さん、どこに行くの?」
「少し出かけてくるだけよ」
「人を殺しに行くの?」
セラフィーヌは答えられなかった。
ノエルの視線が、父の血に濡れた手へ落ちる。
その目に浮かんだ恐怖を見て、セラフィーヌの胸が痛んだ。
「私が怖い?」
「……分からない」
ノエルは震えながらも、セラフィーヌへ近づいた。
「でも、行かないで」
「ノエル……」
「父さんも、明日って言ったんだ」
ノエルの目から涙がこぼれる。
「明日も本を読んでくれるって言ったのに、もう起きない。姉さんも帰ってこなくなるの?」
セラフィーヌはノエルを抱きしめようとした。
だが、血に濡れた自分の両手に気づき、動きを止める。
その代わりに、ノエルの方からセラフィーヌの服へしがみついた。
「行かないで、姉さん」
「すぐに戻るわ」
「本当に?」
「ええ」
「約束してくれる?」
父と交わしたものと同じ約束だった。
胸が締めつけられる。
それでも、セラフィーヌは頷いた。
「約束する。全部終わったら必ず迎えに来る」
「絶対だよ」
「ええ。絶対よ」
セラフィーヌは、血のついていない手首でノエルの銀色の髪をそっと撫でた。
そして父のそばへ戻り、胸元にある氷晶のペンダントを握り締める。
ひびの入った氷晶が、手の中で冷たく震えた。
「行ってくるね、父さん」
「セラフィーヌ!」
マリアの声を振り切り、扉を開ける。
冷たい雪が、家の中へ吹き込んできた。
セラフィーヌは一度も振り返らず、暗闇の中へ走り出した。
父の血が乾くよりも先に、彼女は家を飛び出した。
セラフィーヌは、雪の中を走り続けた。
真っ先に頭へ浮かんだのは、ヴァレール公爵だった。
白く長い髭。
痩せた頬。
いくつもの宝石をはめた指。
何度も笑顔でグラシエ家を訪れ、アルベールの才能を褒めていた大貴族。
それなのに父が捕らえられると、手のひらを返したように成り上がり者だと笑っていた。
父を憎んでいた貴族たちの中でも、ヴァレール公爵は特に大きな力を持っている。
あの男なら必ず何かを知っている。
セラフィーヌは一度も足を止めなかった。
空腹も寒さも感じない。
彼女を動かしていたのは、胸の中で燃え続ける怒りだけだった。
日が沈む頃。
王都を囲む巨大な壁へたどり着いた。
グラシエ家の者が王都へ入れば、すぐに捕らえられる。
だが、今さら罪が一つ増えたところで何も変わらない。
セラフィーヌが壁へ手を触れる。
地面から伸びた白い氷が、壁を上る階段へ変わった。
その階段を駆け上がり、セラフィーヌは王都へ侵入した。
ヴァレール公爵の屋敷は、王都の中心に建っている。
門へ近づくと、兵たちが一斉に武器を構えた。
「止まれ!何者だ!」
「セラフィーヌ・グラシエ」
「グラシエだと?」
「ヴァレールに会わせて」
「公爵閣下を呼び捨てにするな!」
兵たちがセラフィーヌを取り囲む。
「そこをどけて」
「反逆者の娘を捕らえろ!」
一人の兵が、剣を振り上げた。
セラフィーヌの水色の瞳が、冷たく光る。
「邪魔をしないで」
白い霜が地面を走り、兵たちの足を凍りつかせた。
「なっ……!」
さらに氷が剣や槍を包み込み、次々と砕いていく。
「私が殺したいのは、あなたたちじゃない」
動けなくなった兵たちの間を通り抜ける。
セラフィーヌが屋敷の扉へ手を向けると、巨大な氷の塊が扉へ叩きつけられた。
激しい音とともに、分厚い扉が砕け散る。
「侵入者だ!」
「捕らえろ!」
騒ぎを聞きつけた兵たちが、廊下の奥から次々と現れた。
セラフィーヌが片手を上げる。
その瞬間、頭の中へ一つの魔法名が浮かんだ。
「《氷槍連陣》」
何十本もの氷槍が、セラフィーヌの背後へ並ぶ。
手を振り下ろす。
放たれた氷槍が兵たちの武器を打ち砕き、床や壁へ突き刺さった。
広い廊下が、一瞬で白い氷に覆われる。
「化け物だ……」
誰かが呟いた。
セラフィーヌは、その言葉にも反応しなかった。
父の血が黒く乾いた手を握り締め、屋敷の奥へ進んでいく。
最上階の扉を氷で打ち砕いた。
暖炉の前に白い髭を生やした老人が立っていた。
その手には何通もの書状が握られている。
「騒がしいと思えば、反逆者の娘か」
ヴァレール公爵は、書状を暖炉へ投げ込もうとした。
セラフィーヌが手を向ける。
暖炉から広がった氷が炎を消し、そのまま老人の腕まで凍りつかせた。
「ぐっ……!」
「何を燃やそうとしたの?」
「古い書類だ。お前には関係ない」
「父さんを陥れたのは、あなたね」
「何のことかな?」
「国庫のお金も、敵国の金貨も、全部あなたたちが用意したんでしょ」
「父親は自ら罪を認めたはずだ」
「私たちを殺すと脅したからよ」
ヴァレール公爵の眉が、わずかに動いた。
「父親から聞いたのか?」
その一言で十分だった。
「やっぱり、あなたなのね」
セラフィーヌの周囲に冷気が集まる。
ヴァレール公爵は、自分が口を滑らせたことに気づき、顔を歪めた。
「ほかに誰がいたの?」
「知らんな」
「嘘をつかないで」
「子どもが少し魔法を使えるからと、調子に乗るな」
ヴァレール公爵は凍りついた腕を押さえながら、セラフィーヌを睨んだ。
「お前の父親は、もう終わった人間だ」
「父さんは、国のために働いていた」
「身の程も知らず、我々の地位を脅かしただけだ」
「父さんは誰かの役に立ちたかっただけよ」
「だから何だ?」
ヴァレール公爵は鼻で笑った。
「家族を不幸にし、自ら罪を認め、今ごろは家で抜け殻のように生きているのだろう。所詮、その程度の男だったということだ」
ひびの入ったペンダントが、セラフィーヌの胸元で揺れる。
「父さんを壊したのは、あなたたちよ」
「弱かったから壊れたのだ」
セラフィーヌの足元から伸びた氷が、机を覆った。
引き出しが凍りつき、音を立てて砕ける。
中に隠されていた書状が、床へ散らばった。
アルベールの署名を真似た書類。
敵国の紋章が押された偽の密書。
国庫の記録を書き換えるよう命じた手紙。
そこには、ヴァレール公爵を含めた七人の貴族の印が押されていた。
「それに触れるな!」
セラフィーヌは書状を拾い上げる。
「この人たちが、父さんを陥れたのね」
「私を殺せば、お前は本物の反逆者になるぞ」
「だから何?」
「二度と家族のもとへは戻れなくなる」
セラフィーヌの表情が揺れた。
ノエルと交わした約束が、頭をよぎる。
それを見て、ヴァレール公爵が薄く笑った。
「母親と弟が大切なのだろう?私を殺せば、二人まで罪に問われるかもしれんぞ」
「また家族を使って脅すの?」
「分かったなら魔法を解け。今なら、お前がここへ来たことも見逃してやる」
一本の氷槍が、セラフィーヌの前に生まれた。
「待て。その手の血は何だ?」
ヴァレール公爵の視線が、黒く乾いたセラフィーヌの指先へ落ちる。
「父さんの血よ」
「……何?」
「この血は、父さんの血」
ヴァレール公爵の目が大きく見開かれた。
その驚きは、演技ではなかった。
「なぜお前の手にアルベールの血が?」
「私が父さんを殺した」
「実の父親を?」
「そうよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の傷がまた開いた。
それでも、セラフィーヌは氷槍を消さなかった。
「あなたたちが父さんを壊した。父さんから生きようとする気持ちを奪って、私に殺させたの」
「ならば、お前は我々を責められるような人間ではないだろう」
「分かってる」
セラフィーヌの目から、一筋の涙がこぼれた。
「私も、もう許されない」
氷槍の先が、ヴァレール公爵の胸へ向く。
「だから、もう何も怖くない」
「待て。金ならいくらでも――」
「父さんを返して」
「それは……」
「返せないなら、もう話すことはないわ」
氷槍が放たれた。
ヴァレール公爵の胸を貫き、そのまま背後の壁へ突き刺さる。
老人は何も言えないまま、床へ崩れ落ちた。
セラフィーヌは床へ落ちた書状を拾い上げる。
そこに記された、残る六人の名前を見つめた。
「全員、許さない」
その夜。
王都にある貴族の屋敷が、次々と氷に覆われた。
国庫の記録を書き換えた者。
敵国の金貨をグラシエ家へ運び込ませた者。
偽の密告を用意した者。
国王の前で嘘の証言をした者。
アルベールを陥れた貴族たちは、一人ずつセラフィーヌの氷に貫かれていった。
「お願いです!子どもだけは助けてください!」
最後の貴族の妻が、幼い子供を抱きしめながら叫んだ。
セラフィーヌは、二人へ魔法を向けなかった。
「私が殺すのは、父さんを陥れた者だけよ」
部屋の奥へ隠れていた貴族が、妻と子どもを押しのけて逃げ出した。
「私は命令されただけだ!」
「誰に?」
「ヴァレール公爵だ!私は逆らえなかった!」
「父さんにも、守りたい家族がいたわ」
「待ってくれ!」
氷槍が男の胸を貫いた。
貴族が床へ倒れる。
その途端、部屋が静まり返った。
聞こえてくるのは、母親に抱かれた子どもの泣き声だけだった。
その声が、ノエルの泣き声と重なる。
胸を満たしていた怒りが、急速に冷めていった。
父は戻ってこない。
七人を殺しても、何一つ戻ってこなかった。
セラフィーヌは、自分の手を見つめた。
父を殺した手で、さらに七人の命を奪った。
「ノエル……」
約束が頭に浮かぶ。
全部終わったら、必ず迎えに行く。
「帰らなきゃ」
許してもらえなくてもいい。
怖がられてもいい。
帰って、母とノエルに謝りたかった。
それでも家族のそばにいたかった。
セラフィーヌが屋敷を出ると、外には王国騎士団が集まっていた。
「セラフィーヌ・グラシエ!」
騎士団の隊長が剣を抜く。
「七人の貴族を殺害した罪により、貴様を拘束する!」
「退いて」
「大人しく武器を捨てろ!」
「家に帰らないといけないの」
「抵抗するなら、その場で斬る!」
騎士たちが一斉に剣を構えた。
セラフィーヌの背後へ、無数の氷槍が並ぶ。
「《氷槍連陣》!」
氷槍と騎士たちの魔法が激突した。
爆音とともに、雪が空高く舞い上がる。
氷槍が騎士たちの剣と鎧を砕いていく。
だが、すべての攻撃を防ぐことはできなかった。
炎の魔法が脇腹をかすめる。
放たれた矢が、肩を切り裂く。
それでも、セラフィーヌは止まらない。
地面を凍らせ、騎士たちが動けなくなった隙に走り出す。
「追え!」
「絶対に王都から逃がすな!」
セラフィーヌは氷の階段を作り、王都の壁を越えた。
肩と脇腹から血が流れている。
魔力も、ほとんど残っていない。
それでも、足を止めることはできなかった。
ノエルが待っている。
絶対に迎えに行くと約束した。
翌日の昼前。
セラフィーヌは、ようやく家へ続く森まで戻ってきた。
木の陰から、道の様子をうかがう。
家へ続く道には、何人もの騎士が立っていた。
「娘は必ずここへ戻る」
騎士たちの声が聞こえる。
「母親と弟はどうする?」
「今は手を出すな。娘をおびき寄せるために残しておけ」
「娘が戻ったら?」
「三人とも共犯者として連行する。抵抗すれば斬って構わん」
セラフィーヌは、木の陰で拳を握った。
あと少し進めば、ノエルのいる家へ帰れる。
母に謝ることもできる。
父のそばに座ることもできる。
だが、自分が戻れば二人まで捕らえられる。
「ノエル……」
迎えに行くと約束した。
絶対だと言った。
それなのに、その約束を守れば、ノエルを危険にさらしてしまう。
遠くから、馬の足音が近づいてきた。
「いたぞ!」
追ってきた騎士たちが、セラフィーヌを見つけた。
「セラフィーヌ・グラシエだ!」
家の前を見張っていた騎士たちも振り返る。
セラフィーヌは、最後に一度だけ家のある方角を見た。
「ごめんね、ノエル」
家とは反対の方角へ走り出す。
このまま逃げるだけでは、見張りの騎士が残るかもしれない。
セラフィーヌは振り返り、残された魔力を振り絞った。
「私はここよ!」
放たれた氷槍が騎士たちの頭上を通り、背後の木を凍りつかせる。
「追え!」
「全員で囲み込め!」
騎士たちが一斉に、セラフィーヌを追い始めた。
少しでも、母とノエルから遠ざけなければならない。
何度も魔法を受けた。
何度も雪の上へ倒れた。
それでも、そのたびに立ち上がる。
ここで捕まれば、母とノエルまで罪人にされる。
その思いだけが、セラフィーヌを動かしていた。
家を出てから二日目の夜。
セラフィーヌは、国境を示す石柱の前へたどり着いた。
服は破れ、全身が傷だらけになっている。
足を動かすたびに、雪の上へ血が落ちた。
魔力も使い果たし、追っ手の姿を確かめる力さえ残っていない。
それでも、ひび割れた氷晶のペンダントだけは手放さなかった。
石柱を越えれば、セレナリアの外だった。
セラフィーヌは震える足で、一歩を踏み出す。
もう、この国へ戻ることはできない。
戻れば、母とノエルまで殺されるかもしれない。
「迎えに行くって……約束したのに」
セラフィーヌの目から涙が流れた。
「ごめんね、ノエル」
膝から力が抜け、その場に倒れかける。
それでも雪へ手をつき、もう一度立ち上がった。
ここで捕まるわけにはいかない。
少しでも遠くへ逃げなければならない。
「今は帰れないけど……いつか必ず迎えに行くから」
返事はなかった。
「だから、生きていて」
セラフィーヌは、暗い森の中へ歩き出した。
傷だらけの背中が、降り続く雪の向こうへ消えていく。
同じ頃。
ノエルは家の扉を見つめながら、姉の帰りを待っていたのだった。
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