109話 守れなかった約束
ノエルの過去編もとうとう終盤です。個人的に思い入れのある回です。ぜひお楽しみ下さいませ!
それから三日後。
アルベールは久しぶりに朝から寝台を出た。
顔を洗い、伸びた髭を整え、壊れていた窓まで直した。
「あなた、今日は顔色が良いですね」
マリアが嬉しそうに言った。
「ああ。少し眠れたからな」
「本当ですか?」
「心配をかけてすまなかった」
「謝らなくていいんです」
アルベールはマリアの傷だらけの手を取った。
「今まで、本当にありがとう」
「どうしたのですか、急に」
「言いたくなっただけだ」
マリアは少し不思議そうにしていた。
それでも、久しぶりに夫が笑ったことを喜んでいた。
「父さん」
ノエルが古い本を抱えて近づいてくる。
「今日は読んでくれる?」
「ああ。持っておいで」
「本当に?」
「約束したからな」
ノエルは嬉しそうにアルベールの隣へ座った。
アルベールは本を開き、ゆっくりと読み始める。
何度も言葉に詰まった。
途中で声が震えそうにもなった。
それでも本を閉じることなく、最後まで読み続けた。
ノエルは物語を聞きながら何度も笑った。
その笑顔を見るたびに、アルベールの胸は締めつけられた。
「おしまい」
最後の一文を読み終え、アルベールは本を閉じた。
「父さん、今日は最後まで読んでくれたね」
「ああ」
「明日も読んでくれる?」
アルベールは、すぐに答えられなかった。
「父さん?」
「……もちろんだ」
「約束だよ」
「ああ。約束する」
ノエルは満足そうに笑った。
アルベールは、その小さな体を強く抱きしめる。
「苦しいよ、父さん」
「ごめん」
「どうしたの?」
「少しだけ、このままでいさせてくれ」
「いいよ」
ノエルはアルベールの背中へ腕を回した。
少し離れた場所から、セラフィーヌが二人を見つめていた。
父が元気になったことは嬉しい。
それなのに、胸の奥に生まれた不安が消えなかった。
「セラフィーヌ」
アルベールが呼びかける。
「何?」
「お前も、こっちへおいで」
「私はもう子どもじゃないわ」
「父さんから見れば、まだ子どもだよ」
「仕方ないわね」
セラフィーヌも二人へ近づいた。
アルベールは、セラフィーヌの体も抱き寄せる。
「父さん、本当にどうしたの?」
「何でもない」
アルベールは娘の銀色の髪を撫でた。
「お前は強い子だ」
「急に何よ」
「これからも、ノエルを守ってやってくれ」
セラフィーヌの表情が曇る。
「それは父さんの役目でしょ」
「そうだな」
「元気になったなら、自分で守って」
「ああ」
アルベールは寂しそうに笑った。
「その通りだ」
その夜。
家族が眠りについたあと、セラフィーヌは小さな物音で目を覚ました。
薄く目を開く。
月明かりの差し込む部屋に、アルベールが立っていた。
眠っているノエルの前で、父は何かを握っている。
銀色の刃が月明かりを反射した。
「父さん?」
セラフィーヌが体を起こす。
アルベールの肩が、わずかに動いた。
「起こしてしまったか」
「何を持ってるの?」
「何でもない」
「嘘よ」
セラフィーヌは寝台から降りた。
「それを置いて」
「眠っていなさい」
「父さん、それで何をするつもりなの?」
アルベールは答えなかった。
その目は眠っているノエルへ向けられている。
セラフィーヌの背中に、冷たい汗が流れた。
「ノエルから離れて」
「大丈夫だ」
アルベールの声は、不気味なほど穏やかだった。
「すぐに終わる。痛い思いはさせない」
「何を言ってるの?」
「これ以上、苦しむ必要はないんだ」
アルベールは、眠っているノエルの頬へ手を伸ばした。
「このまま生きていても、私たちは傷つけられ続ける。誰も助けてくれない。どこへ行っても逃げられない」
「だから死ぬの?」
「ああ」
「私たちも一緒に?」
「四人で一緒なら、誰も一人にはならない」
「そんなのおかしいわ」
「おかしくない」
アルベールの声が震え始めた。
「父さんが、お前たちを守るんだ」
「それは守ることじゃない!」
セラフィーヌの声で、マリアとノエルが目を覚ました。
「あなた……?」
マリアは、アルベールが手にしている刃物を見て息を呑んだ。
「何をしているのですか?」
「マリア。もう終わりにしよう」
「それを置いてください」
「疲れただろう?」
アルベールは、マリアの傷だらけの指を見る。
「もう働かなくていい。誰かに怯える必要もない。みんなで楽になろう」
「私はそんなことを望んでいません」
「今は分からないだけだ」
「分かっています」
マリアは寝台から降り、アルベールへ近づいた。
「私は生きたい。セラフィーヌも、ノエルも生きたいのです」
「生きてどうする?」
「四人で暮らします」
「今までと同じ苦しみが続くだけだ!」
アルベールの叫び声が、家の中へ響いた。
ノエルが怯えたように、セラフィーヌへしがみつく。
「姉さん……父さん、どうしたの?」
「大丈夫よ」
セラフィーヌは、ノエルを背中へ隠した。
「私が守るから」
アルベールは、そんな娘の姿を見つめた。
「セラフィーヌ。そこをどいてくれ」
「嫌よ」
「父さんの言うことを聞きなさい」
「嫌だって言ってるでしょ!」
白い霜がセラフィーヌの足元から広がった。
アルベールの両足を、氷が包み込む。
「セラフィーヌ!」
以前と同じ、父の強い声だった。
「今すぐ魔法を解きなさい」
セラフィーヌの肩が震える。
屋敷へ騎士たちが来た朝も、父に同じことを言われた。
あの時は、父を信じて魔法を解いた。
「嫌よ」
「セラフィーヌ」
「今度は絶対に解かない」
セラフィーヌは涙を浮かべながら、父を睨んだ。
「魔法は、大切な人を守るために使うんでしょ!」
アルベールの顔が苦しそうに歪む。
「ああ。だから父さんも、お前たちを守ろうとしているんだ」
「私たちは、そんな守り方を望んでない!」
「なら、どうすればよかった!」
アルベールが叫んだ。
「何をしても駄目だった!誰も私の言葉を信じなかった!仕事もない!金もない!お前たちに食べさせることさえできない!」
「それでも、一緒に生きればいいじゃない!」
「もう無理なんだ!」
アルベールの目から涙が流れた。
「父さんには、もう何も残っていない」
「私たちがいるわ!」
セラフィーヌも泣いていた。
「母さんも、ノエルも、私もいる!それじゃ駄目なの?」
アルベールは何も答えなかった。
手にした刃物を強く握り締める。
やがて、凍りついた足を無理やり動かした。
氷に亀裂が走る。
「来ないで」
セラフィーヌの前に、一本の氷の槍が生まれた。
鋭い先端が、アルベールへ向けられる。
「それ以上来たら、本当に撃つわ」
「お前にはできない」
「やめて、父さん」
「セラフィーヌ。どきなさい」
「来ないで!」
アルベールが氷を砕き、一歩踏み出した。
マリアがその腕へしがみつく。
「あなた、目を覚ましてください!」
「放してくれ!」
「絶対に放しません!」
アルベールが腕を振り払った。
マリアの体が床へ倒れる。
「母さん!」
ノエルがセラフィーヌの背中から飛び出した。
アルベールがノエルへ手を伸ばす。
「ノエル!」
セラフィーヌの叫びが響いた。
父の手には、まだ刃物が握られている。
ノエルが足を止めた。
「父さん……?」
アルベールがノエルへ顔を向ける。
その瞬間だった。
「父さんから離れて!」
セラフィーヌの魔法が放たれた。
白い閃光が、暗い部屋を照らす。
氷の槍がアルベールの胸を貫いた。
「……あ」
アルベールの手から刃物が落ちる。
その場にいた誰も、動けなかった。
ノエルは、父の胸から伸びる氷の槍を見つめていた。
「父……さん?」
氷の槍が砕け、アルベールの体が床へ倒れる。
「父さん!」
セラフィーヌが駆け寄り、その体を抱き起こした。
「嫌……違うの。私は、止めようとしただけで……」
アルベールの胸から流れる血が、セラフィーヌの手を赤く染めていく。
「母さん、どうすればいいの!?」
マリアも夫のそばへ膝をつき、必死に傷を押さえた。
「布を持ってきて!」
「う、うん!」
ノエルは近くにあった布をつかみ、マリアへ渡した。
「父さん、起きて!」
アルベールの瞼が、わずかに動いた。
「セラ……フィーヌ……」
「父さん!今助けるから!」
「泣くな……」
「ごめんなさい。私、父さんを……」
「謝るのは……父さんの方だ」
アルベールは震える手を上げ、セラフィーヌの頬へ触れた。
「お前は……守ったんだな」
「違う……私は……」
「母さんと……ノエルを……守ってくれた」
セラフィーヌは何度も首を横へ振った。
「嫌よ。そんなこと言わないで」
「セラフィーヌ……二人を頼む」
「二人を守るのは、父さんの役目でしょ!」
かつて父が騎士に連れていかれる時にも言った言葉だった。
「だから、自分で守ってよ!また帰ってくるって約束したじゃない!」
「……そうだったな」
アルベールは、ほんの少しだけ笑った。
「約束を守れなくて……すまない」
「謝らないで!起きてよ、父さん!」
アルベールの手が、セラフィーヌの頬から落ちた。
「父さん?」
返事はなかった。
「父さん!」
セラフィーヌの叫びが、家の中へ響いた。
マリアはアルベールの胸へ顔を伏せ、声を押し殺して泣いていた。
ノエルは、その場に座り込んでいる。
「父さんを治して」
震える声で呟いた。
「姉さん、父さんを治してよ」
「私には……治せない」
「魔法を使えば治せるんでしょ?」
「私の魔法は……」
セラフィーヌは、血に濡れた自分の手を見る。
「人を傷つけることしかできないの」
「じゃあ、僕が治す」
ノエルはアルベールの胸へ両手を当てた。
「僕が父さんを治すから」
何度も、必死に願った。
だが、ノエルの手に魔法は宿らなかった。
「お願い……治ってよ」
返事はない。
父の体は、少しずつ冷たくなっていく。
「どうして……」
ノエルはセラフィーヌを見上げた。
その目には、悲しみと恐怖が浮かんでいた。
「姉さんが……父さんを殺したの?」
セラフィーヌは答えられなかった。
血に濡れた手が震えている。
「あいつらが……」
セラフィーヌの足元から、白い霜が広がり始めた。
床だけではない。
壁も、窓も、天井も、瞬く間に凍りついていく。
「セラフィーヌ?」
マリアが顔を上げる。
「あいつらが、父さんをこんなふうにした」
セラフィーヌの周囲に、何十本もの氷の槍が生まれた。
これまでとは比べものにならないほど、鋭く、冷たい氷だった。
「父さんを騙した奴らが、私たちから全部奪った」
水色の瞳から涙が流れる。
その涙さえ、頬の上で凍りついた。
「絶対に許さない」
無数の氷槍が、暗闇の中で鋭く光る。
「父さんを壊した奴らを、全員殺す」
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