107話 帰ってきた父
いつもお読み頂きありがとうございます。
個人的にセレナリア編はお気に入りの章なので、丁寧に作っていきたいと思います!ぜひお楽しみ下さい!
朝になってもアルベールは帰ってこなかった。
代わりにグラシエ家の屋敷へやってきたのは、王宮から派遣された役人たちだった。
門の前には既に大勢の人が集まっている。
役人の一人が、グラシエ家の門へ一枚の告示を貼りつけた。
――アルベール・グラシエ、自らすべての罪を認める。
「嘘よ」
告示を読んだセラフィーヌは、すぐに言い切った。
「父さんが国を裏切るはずがないわ」
「しかし、本人が罪を認めた」
役人が冷たく答える。
「認めさせられたのよ」
「その証拠はあるのか?」
「それは……」
セラフィーヌは答えられなかった。
告示の下にはアルベールの署名が記されている。
何度も見た、父の文字だった。
「これ、父さんが書いたの?」
隣にいたノエルが不安そうに尋ねる。
「違うわ」
「でも父さんの名前があるよ」
「父さんが書いたとしても、ここに書かれていることは嘘よ」
セラフィーヌは迷わなかった。
「父さんは私たちを守るために書いたの。きっとそうだわ」
役人はもう一枚の書状を広げた。
「国王陛下の命により、アルベール・グラシエの爵位と役職を剥奪する。屋敷、領地、財産は、すべて王国が没収する」
マリアの顔から血の気が引いた。
「私たちは、どうなるのですか?」
「本日の日没までに屋敷から退去していただきます」
「今日中に?」
「これは王命です」
「夫はどこにいるのですか?」
「本日の正午、北門から王都の外へ追放されます」
「命は……無事なのですね?」
「死罪は免れました」
マリアは胸元へ手を当てた。
それを聞けただけでも今は十分だった。
「分かりました。荷物をまとめます」
「母さん!」
セラフィーヌが声を上げる。
「どうして言うことを聞くの?この人たちは、私たちから全部を奪おうとしてるのよ!」
「分かっているわ」
「だったら!」
「今ここで逆らえば、お父さんが守ろうとしたものまで失うことになるわ」
マリアはセラフィーヌの肩へ手を置いた。
「ノエルを連れて部屋へ戻りなさい。必要なものだけを持ってきて」
セラフィーヌは納得できなかった。
それでも隣で怯えているノエルを見ると、何も言い返せなくなった。
「……行きましょう、ノエル」
二人は手を繋ぎ、部屋へ戻った。
すでに使用人たちも、屋敷から出るよう命じられていた。
長く仕えていた者たちは、マリアたちへ深く頭を下げてから去っていく。
「奥様。どうか、お元気で」
「今までありがとう」
「グラシエ様が国を裏切ったなんて、私は信じません」
そう言い残す者もいた。
だが、誰一人としてグラシエ家に残ることは許されなかった。
セラフィーヌは自分の部屋を見回した。
机も、本棚も、寝台も。
すべて置いていかなければならない。
机の引き出しを開ける。
その奥には氷晶を模した小さなペンダントが入っていた。
幼い頃、アルベールから贈られたものだった。
セラフィーヌはペンダントを首にかけ、服の下へ隠した。
「それ、持っていくの?」
ノエルが尋ねる。
「ええ。これだけは誰にも渡さないわ」
「僕は何を持っていけばいい?」
「自分が一番大切だと思うものを持っていきなさい」
ノエルは部屋の中を見回した。
しばらく考えたあと、一冊の古い本を手に取る。
アルベールが何度も読み聞かせてくれた本だった。
「これにする」
「そう」
「また父さんに読んでもらうんだ」
セラフィーヌは答えられなかった。
代わりに、ノエルの手を強く握った。
正午。
マリアたちは、わずかな荷物を抱えて王都の北門で待っていた。
冷たい雪が静かに降り続いている。
やがて雪の向こうから、一台の馬車が近づいてきた。
馬車が止まり、扉が開く。
降りてきたのは、薄汚れた服を着たアルベールだった。
両手に鎖はない。
だが数日前まで身につけていた立派な服も、貴族の証も失っていた。
「父さん!」
ノエルは荷物を放り出し、アルベールへ駆け寄った。
アルベールはその場に膝をつき、飛び込んできたノエルを強く抱きしめる。
「父さん、帰ってきた!」
「ああ」
「約束、守ってくれたんだね」
アルベールは目を閉じた。
「ああ。約束したからな」
セラフィーヌも、ゆっくりとアルベールの前へ歩み寄った。
「遅いわよ」
「ごめん」
「ずっと待っていたんだから」
「ああ」
「でも、ちゃんと帰ってきたから許してあげる」
セラフィーヌはそう言うと、アルベールの胸へ顔を埋めた。
アルベールは娘の銀色の髪を優しく撫でる。
「心配をかけたな」
マリアもゆっくりと近づいてきた。
「あなた」
「マリア……すまない」
「謝らないでください」
「何もかも失った。屋敷も、財産も、君たちの暮らしも……」
「あなたは帰ってきてくれました」
マリアは涙をこらえながら笑った。
「お帰りなさい」
アルベールは何も言えなかった。
しばらくして、震える声で答える。
「……ただいま」
門を守る騎士が、アルベールへ告げた。
「これより先、許可なく王都へ入ることを禁ずる。命令に背けば、今度こそ死罪だ」
「分かっている」
「行け」
重い音とともに、王都の門が閉じ始める。
アルベールは振り返った。
長い間、国のために働いてきた場所。
家族と暮らしてきた屋敷も、もうあの壁の向こうにある。
やがて門は完全に閉ざされた。
「帰りましょう」
マリアが言った。
「……どこへ?」
アルベールが呟く。
「四人でいられる場所へ」
マリアは、アルベールの手を握った。
「あなたが一緒なら、そこが私たちの家です」
アルベールは小さくうなずいた。
四人は雪の降る道を歩き始めた。
家族に残されたものは殆どなかった。
そんな四人を助けたのは、かつてアルベールの政策によって救われた一人の農夫だった。
「こんな古い家しか用意できませんでしたが……」
農夫は申し訳なさそうに鍵を差し出した。
王都から離れた場所にある小さな空き家だった。
壁にはひびが入り、屋根もところどころ傷んでいる。
「十分です。本当にありがとうございます」
マリアが深く頭を下げた。
「頭を上げてください」
農夫は慌てて言った。
「冬の道ができなければ、私の娘は薬を受け取れずに死んでいました」
そしてアルベールをまっすぐ見た。
「あなたは、私たち家族の恩人です」
「私は国を裏切った男だ」
「私は信じていません」
農夫は迷いなく答えた。
だが、すぐに周囲を気にするように声を落とす。
「ただ、ここをお貸ししたことは誰にも言わないでください。私にも家族がいます」
「分かっている」
アルベールは無理に笑った。
「本当にありがとう」
家族はその古い家で新しい暮らしを始めた。
以前のような使用人はいない。
温かな料理も柔らかな寝台もない。
それでも最初の頃は、四人でいられるだけで幸せだった。
ノエルは毎日のように、アルベールのもとへ本を持っていった。
「父さん、これ読んで」
「ああ。あとでな」
「昨日も、あとでって言ってたよ」
「ごめん。今日は必ず読むよ」
アルベールはそう約束した。
だが、その約束を守れない日が少しずつ増えていった。
それから一か月が過ぎた。
アルベールは毎朝、仕事を探しに出かけた。
どんな仕事でもよかった。
家族が食べていけるだけの金を稼ぎたかった。
だが、どこへ行っても答えは同じだった。
「反逆者を雇うわけにはいかない」
「あなたを雇ったと知られれば、店まで潰される」
「悪いが他を当たってくれ」
以前は誰もが笑顔で頭を下げていた。
今ではアルベールの姿を見ただけで扉を閉ざす。
仕事を見つけられないまま、アルベールは家へ戻った。
「お帰りなさい」
マリアは、いつも笑顔で迎えた。
「今日はどうでしたか?」
「……駄目だった」
「そうですか」
「すまない」
「あなたが謝ることではありません」
マリアも昼夜を問わず裁縫の仕事をしていた。
指にはいくつもの傷ができている。
セラフィーヌは水を汲み、薪を集めた。
ノエルも自分にできることを探して家族を手伝った。
その日の夕食は薄い野菜のスープと、一つのパンだけだった。
マリアがパンを四つに分ける。
セラフィーヌは、自分の分をノエルの前へ置いた。
「姉さんの分だよ」
「私はお腹が空いてないの」
「でも……」
「いいから食べなさい」
ノエルは困ったようにパンを見つめた。
やがて、その半分をアルベールへ差し出す。
「父さん、これ食べて」
「それはノエルの分だ」
「僕は大丈夫」
「だが……」
「父さんが元気になったら、また困ってる人を助けられるでしょ?」
アルベールの手が震えた。
家族は誰も自分を責めなかった。
だからこそ苦しかった。
「……ありがとう」
アルベールはノエルからパンを受け取った。
だが、口へ運ぶことはできなかった。
その夜。
家族が眠ったあとも、アルベールは一人で起きていた。
暖炉の火は既に消えている。
冷え切った部屋の中で、眠る家族を見つめる。
傷だらけの指をしたマリア。
弟を守るように寄り添って眠るセラフィーヌ。
その胸元では、かつて自分が贈った氷晶のペンダントが小さく揺れていた。
ノエルは、父に読んでもらうはずだった本を抱えて眠っている。
「私は……何のために帰ってきたんだ」
誰も答えない。
自分が帰ってきたせいで、家族は苦しんでいる。
自分がいる限り、この三人は反逆者の家族と呼ばれ続ける。
アルベールは、眠る子供たちから目をそらした。
帰るという約束は守った。
だが、家族を幸せにすることはできなかった。
このまま生き続けることが、本当に家族を守ることなのだろうか。
その問いは、夜が明けても消えなかった。
本日もお読み頂きありがとうございました!




