106 壊された約束
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それから数日が過ぎた。
アルベールは新しい役目に追われ、帰りが遅くなる日が続いていた。
それでも、どれほど遅くなっても必ず屋敷へ戻った。
セラフィーヌと交わした約束を守るためだった。
その夜も、アルベールが帰ってきたのは家族が眠ったあとだった。
そして空が白み始めるよりも前。
屋敷の扉を激しく叩く音が響いた。
「セレナリア王国騎士団だ!アルベール・グラシエに反逆の疑いがある!ただちに扉を開けろ!」
セラフィーヌは寝台から飛び起きた。
隣ではノエルも不安そうに体を起こしている。
「姉さん、何の音?」
「分からない。ノエルはここにいて」
「姉さん、行かないで」
ノエルがセラフィーヌの服をつかんだ。
セラフィーヌは少し迷ったあと、その手を握る。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
二人が廊下へ出ると、玄関にはマリアとアルベールが立っていた。
扉の外には十人を超える騎士が並んでいる。
アルベールが扉を開けた瞬間、冷たい風と雪が屋敷の中へ吹き込んだ。
騎士団の隊長が、一枚の書状を広げる。
「アルベール・グラシエ。国庫金の横領、敵国への機密漏洩、ならびに国王陛下への反逆を企てた疑いにより、あなたの身柄を拘束する」
「何かの間違いだ」
アルベールはすぐに答えた。
「王宮にあるあなたの執務室から、署名入りの密書と、書き換えられた国庫の記録が見つかっています」
「私はそんなものを書いていない」
「この逮捕状には、陛下の許可も下りています」
書状の下には国王の印が押されていた。
アルベールの表情がわずかに曇る。
「屋敷の捜索も命じられています」
隊長が片手を上げた。
「調べろ」
騎士たちが一斉に屋敷へ入ってくる。
「待ちなさい!」
セラフィーヌが騎士たちの前へ立った。
「父さんのものに、勝手に触らないで!」
「子どもは下がっていろ」
一人の騎士がセラフィーヌを脇へ退かそうとする。
その足元に、白い霜が広がった。
「なっ……!」
床を走った氷が、騎士の両足を瞬く間に凍りつかせる。
ほかの騎士たちが剣に手をかけた。
「セラフィーヌ!」
アルベールの強い声が響いた。
セラフィーヌの肩が震える。
「今すぐ魔法を解きなさい」
「でも、この人たちは父さんを連れていこうとしてるのよ!」
「分かっている」
「魔法は大切な人を守るために使うんでしょ!」
「ああ」
アルベールはまっすぐに娘を見た。
「だからこそ今は使ってはいけない」
「どうしてよ!」
「ここで騎士を傷つければ、お前まで罪人にされる。母さんも、ノエルも、連れていかれるかもしれない」
「じゃあ、父さんを守れないじゃない!」
「戦うことだけが守ることではないんだ」
セラフィーヌは何も言えなかった。
アルベールはできるだけ穏やかな声で続ける。
「父さんを信じてくれ」
セラフィーヌは唇を噛んだ。
やがて手を下ろすと、騎士の足を覆っていた氷が砕け落ちた。
「……分かったわ」
騎士たちは警戒しながら、屋敷の奥へ入っていった。
しばらくして、一人の騎士が黒い箱を抱えて戻ってくる。
「隊長。書斎の床下から、これを」
箱の中には、大量の金貨と何通もの書状が入っていた。
金貨には敵国の紋章が刻まれている。
「知らない。そんなものは私のものではない」
「書状にはあなたの署名があります」
「偽造されたものだ」
「これだけの証拠がありながら、まだ否定するおつもりですか?」
アルベールは箱を持つ騎士を見た。
「私さえ知らない床板の下を、随分と簡単に見つけたな」
騎士の表情がわずかにこわばる。
「事前に密告がありました」
「その密告者は、そこまで詳しく知っていたのか?」
「続きは取り調べで聞きます」
隊長が部下へ目を向けた。
アルベールの両手に、冷たい鎖がかけられる。
「待ってください!」
マリアが、アルベールの腕をつかんだ。
「夫が国を裏切るはずがありません。誰よりもこの国のために働いてきた人です」
「抵抗されるのであれば、奥方にも同行していただきます」
「マリア」
アルベールが静かに首を横へ振った。
「大丈夫だ。すべて仕組まれたことだと、必ず証明してみせる」
「でも……」
「二人の側にいてやってくれ」
ノエルが、アルベールの服をつかんだ。
「父さん」
アルベールは鎖につながれたまま、ノエルの前へ膝をつく。
「どうした?」
「父さん、悪いことしたの?」
「していないよ」
「じゃあ、どうして連れていかれるの?」
「誰かが、父さんを悪者にしようとしているんだ」
「ちゃんと話せば、帰ってこられる?」
「ああ」
「本当に?」
「必ず帰ってくる」
ノエルは安心したようにうなずいた。
セラフィーヌは、アルベールを睨むように見つめていた。
「約束したわよね」
「ああ」
「絶対に帰ってくるって」
「覚えているよ」
「だったら、守って」
「必ず守る」
アルベールは立ち上がった。
「セラフィーヌ。母さんとノエルを頼む」
「二人を守るのは、父さんの役目でしょ」
セラフィーヌの声が震える。
「だから、自分でちゃんと帰ってきて」
アルベールは少し驚いたあと、優しく笑った。
「そうだな」
騎士たちに囲まれ、アルベールは屋敷の外へ連れていかれた。
騒ぎを聞きつけた人々が、門の外へ集まっている。
「グラシエ様が、国を裏切ったらしい」
「嘘だ。あの方がそんなことをするはずがない」
「だが、屋敷から証拠が出たそうだ」
「良い人のふりをして、裏では国を売っていたのか」
つい先日までアルベールへ頭を下げていた者たちが、疑いの目を向けていた。
セラフィーヌは、裸足のまま雪の上へ飛び出す。
「父さん!」
ノエルもそのあとを追った。
アルベールを乗せた馬車が、ゆっくりと動き始める。
「父さん!約束だからね!」
小さな窓の向こうで、アルベールが振り返った。
声は聞こえない。
それでも、その口が「分かっている」と動いたように見えた。
馬車は雪の中へ消えていった。
「父さん、帰ってくるよね?」
ノエルが震える声で尋ねた。
セラフィーヌは、弟の手を強く握った。
「帰ってくるわ」
「本当に?」
「父さんは約束を破らないもの」
自分にも言い聞かせるように、セラフィーヌはそう答えた。
同じ日の夜。
アルベールは王宮の地下牢に閉じ込められていた。
何度取り調べを受けても答えは変えなかった。
国庫から金を盗んでいない。
敵国へ情報を渡していない。
王位を奪おうと考えたこともない。
全て誰かが作り上げた罪だった。
やがて重い扉が開いた。
白く長い髭。
痩せた頬。
指には、いくつもの宝石がはめられている。
何度も笑顔で屋敷を訪れ、アルベールの才能を褒めていた大貴族だった。
「あなたか」
アルベールが低い声で言った。
「何のことかな?」
「私の執務室と屋敷の両方へ、証拠を仕込める者は限られている」
「随分と想像力が豊かになったものだ」
「私を笑いに来たのか?」
「助けに来たのだよ」
老人は一枚の紙を取り出した。
そして鉄格子の間から、アルベールの前へ差し入れる。
「署名しろ」
そこには全ての罪を認める言葉が並んでいた。
国庫金を横領したこと。
敵国へ情報を流したこと。
国王を退け、自らが王になろうとしたこと。
どれもアルベールには身に覚えがない。
「こんなものに署名すれば、私は本当に反逆者になる」
「お前は、もう反逆者だ」
老人は冷たく言った。
「違うのは家族まで反逆者になるかどうかだけだ」
アルベールが老人を睨む。
「どういう意味だ?」
「明日の朝には、奥方の部屋から新たな証拠が見つかるかもしれん」
老人の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「娘が騎士へ魔法を向けたことも、逃亡を助けようとした証拠にできる」
「まだ子どもだぞ」
「反逆者の子どもであることに年齢は関係ない」
「ノエルまで巻き込むつもりか?」
「お前次第だ」
老人は紙を指先で叩いた。
「全て自分一人で行ったと認めれば、家族を共犯にはしない」
「私に罪を認めろと言うのか」
「ああ」
「そのあとは?」
「陛下には、死罪を免れ、王都からの追放で済むよう進言してやろう」
アルベールは老人の顔をじっと見た。
「なぜ私を生かす?」
「民から慕われているお前を殺せば、死んだお前が英雄にされるかもしれん」
老人は楽しそうに笑った。
「自ら罪を認めた卑怯者として生きてもらう方が、我々には都合がいい」
「爵位も、財産も、すべて奪うつもりか」
「当然だ」
「家族はどうなる?」
「牢へ入ることはない」
「住む場所も、食べるものも失う」
「命は残る。それで十分だろう?」
アルベールは何も答えられなかった。
マリアの顔が浮かぶ。
服をつかんで離さなかったノエルの小さな手。
そして絶対に帰ってきてと訴えたセラフィーヌの声。
「……署名すれば、家族には手を出さないんだな?」
「ああ」
「約束しろ」
「貴族の名にかけて約束しよう」
その言葉をアルベールは信じていなかった。
それでも他に家族を守る方法がなかった。
羽根ペンを受け取る。
力は大切な者や、助けを求める者を守るために使うものだ。
自分が子供たちへ教えた言葉が頭に浮かんだ。
今の自分に残されている力は、地位でも財産でもない。
ただ自分の名だけだった。
その名を捨てれば、家族を守れるかもしれない。
アルベールは震える手で、書状の最後に署名した。
アルベール・グラシエ。
老人が書状を拾い上げ、その名を確かめる。
「賢明な判断だ」
「家族には手を出すな」
「心配するな。お前たちは、元いた場所へ戻るだけだ」
老人は牢を出ていった。
重い扉が閉ざされる。
暗闇の中に一人残されたアルベールは、うつむいたまま動かなかった。
「セラフィーヌ……ノエル……すまない」
夜が明ける頃。
王都中の掲示板に、一枚の告示が貼られた。
――アルベール・グラシエ、自らすべての罪を認める。
帰ると約束したアルベールよりも先に、その知らせだけが家族のもとへ届いた。
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