3.
クロウの自宅は、清岡市中心部から徒歩二時間程の距離にある住宅街に建つ木造二階建ての築十五年の一軒家だった。
「あっつ……。ちょっと、歩いただけで汗ダラダラだよ……」
バス停から自宅まで歩いてきたクロウは、ハンカチで汗を拭いながらそう呟いた。
「先にシャワー浴びよっと、」
そう呟きながら郵便ポストを確認し、家の中に入る。中は薄暗く、しんと静まりかえっていた。
クロウは、壁のスイッチを押して、廊下の明かりをつけると靴を脱いで奥にある和室に向かっていった。
和室には、タンスと黒塗りの仏壇が置かれていた。
仏壇の扉を開けると、中にはクロウに良く似た容姿の女性の写真が飾られていた。
「ただいま、母さん」
クロウはそう言って、お鈴を鳴らして手を合わせた。
写真の女性は、母親の秋葉五樹で、クロウが幼い頃に病気で亡くなっていた。それ以来、クロウは、この家に父と二人で暮らしていた。
和室を出るとクロウは、階段を上り、二階の奥にある自室に向かった。
部屋に入るや、クロウはバッグをベッドの上に放り投げた。ボスン、と鈍い音が部屋に響く。
ズボンを脱いでハンガーに掛けると、ベッド脇の棚に置かれた消臭剤を手に取って、二、三回吹きつけた。
タンスから下着とグレーの半袖のシャツ、ダメージ加工が施されたショートパンツを取り出すと、クロウは、スマホを持って一階にある脱衣所に向かっていった。
脱衣所に行くと、洗濯機の上に置かれたバスマットを床に敷き、棚からバスタオルを取り出して、脱衣カゴの上に着替えと一緒に置いた。
浴室の電気と換気扇を付けると、クロウは、汗で湿った服を脱ぎ始めた。
「うわ、これもベトベトだ……」
肌に貼り付く薄い半袖のシャツを脱いで、洗濯カゴの中に放り込む。湿り気を帯びた肌が空気に触れ、ひんやりと心地よかった。
服を全て脱ぎ終え、一糸纏わぬ姿になるとクロウは、浴室の中に入っていった。
最初に窓を閉め、シャワーベッドを高い位置に付け替えてから、温めのシャワーを頭から被った。
浴室に雨音に似た細かな水音が木霊する。
「……っはぁ」
シャワーを止め、大きく息を吸い込むと、椅子の表面を軽く流してから座った。手のひらの上に出したボディソープを軽く泡立て、擦り込むように身体の隅々まで塗り広げていく。
「……すこしは、筋肉が付いたかな?」
腕を摩りながらそう呟く。クロウは、小柄で無駄な肉のない引き締まった体つきをしていた。
「あんまり、変化ないんだよな。やっぱり、毎日鍛えないとダメかな?」
そう呟きながら腕をL字に曲げ、ぐっと力を入れる。僅かに二の腕の真ん中がぽこりと軽く隆起した。
「力こぶも、なんだか頼りないんだよな。それに……、」
クロウは、そう呟くと臀部を撫で回した。「尻が小さくならないんだよなぁ……。むしろ、余計に大きくなった気がするし……」
クロウは、そう呟くと股と臀部を洗い始めた。デリケートな部分なので、慎重に洗っていく。
一通り、洗い終えると椅子から立ち上がり、シャワーで全身についたボディソープを洗い流し、シャワーを止めて椅子に座った。
手のひらの上にシャンプーを出すと頭皮に満遍なく行き渡るようにしながら丁寧に頭を洗っていき、そのあと、シャワーでサッと洗い流した。
クロウは、浴室から出て身体と髪を拭いた後、ドライヤーを持って居間に移動し、エアコンとテレビを付けた。
『……次のニュースです。南区で発生した三件の殺人事件は、犯行に使われた凶器の形状や手口が一致することから南区を管轄する清岡南警察署は、連続殺人事件であるとの見解を発表しました。これに伴い清岡南警察署は、県警察本部に対して捜査協力要請を……』
夕方に放送しているローカル情報番組が映し出される。アナウンサーは淡々とした口調で、南区で起きた三件の殺人事件に関するニュースを読み上げていた。
「連続殺人事件か……。なんだか、最近、物騒になったよな」
クロウは、髪を乾かしながらそう呟いた。
『……それでは、清岡警察署前の溝口さん。そちらの様子はどうでしょうか?』
アナウンサーがそう言うと画面が切り替わり、清岡警察署前に立つ若いリポーターの映像が映し出された。
『はい。会見は先程終わり、今は捜査関係者の出入りがあるくらいで、目立った動きはありません。三件の殺人事件は、いづれも物証や目撃情報が少ない事から捜査は難航しているようです。また、被害者に共通点が見られない事などから無差別殺人も視野に入れて捜査を進めているとの事でした。事件現場は夜になると人通りが少なくなるという特徴があり、先程の会見で捜査本部は、区内全域にあるこの特徴を備えた場所の巡回を強化する方針を発表しました』
リポーターがそう言うと、画面が切り替わり、警察の会見の様子が映し出される。
『えー、清岡南警察署管内で発生した三件の殺人事件におきまして、事件の発生を未然に防ぐ観点から、区内にある事件現場と似た特徴を備えた場所の巡回を強化すると共に県警察本部と他の二区を管轄する警察署と連携して……』
眼鏡を掛けた神経質そうな初老の男性が手元の原稿を読み上げ始めた。
「ふーん、巡回、かぁ……。まっ、俺には、関係ないかな」
髪を乾かし終わるとクロウは、テレビを消した。「それよりも、今日の献立を考えなきゃだよ。……なに作ろ」
そう言ってスマホに入っている料理写真投稿アプリを開こうとする。
「……そうだった。壊れてるんだっけ……」クロウは、深いため息をつくとスマホをテーブルの上に置いた。「と、なるとパソコンでレシピサイトを見なきゃいけないのか……」
クロウは、そう呟くと部屋の隅に置かれているパソコンを立ち上げた。
「カレー……は、この前やったばかりだもんな。うーん。どうすっかなぁ……。豚バラ肉を使っちゃいたいんだよなぁ。野菜炒めか、焼きそば、か……、それか、カレーか……。カレーなら、明日の朝ごはんにも出来るしなぁ……」
椅子に座りながら考えていると電話が鳴った。
「わっ、」
びっくりして、思わず声を上げる。
「……はぁ、びっくりした」
クロウは、一息つくと受話器を取った。「はい。秋葉です」
『おう、クロウか?お前、携帯どうした?何度掛けても繋がらなかったぞ?』
電話は、父親の秋葉シロウからだった。
「ああ、うん。ちょっと壊れちゃってさ」
『壊れた?』
「うん。だから、色々と不便でさ。まあ、財布持ってたから助かったけど、」
『ほら、俺の言った通りだろ?キャッシュレス社会ってのは、便利に思えるかもしれんが……』
「あ、でさ、何か用事なの?」
話が逸れそうだったので、クロウは、シロウの言葉を遮るようにそう言った。
『ん、ああ。そうだ。なあ、もう夕飯は作ったか?』
電話口のシロウは、歯切れ悪くそう言った。
「いや、まだだけど?」
『そうか。ならよかった』
シロウは、安堵した様子でそう言った。
「え、よかったって……?ああ、それよりも今日の夕飯なんだけどさ……」
『いや、実はな、今日、上司の送別会があってな……』
シロウは、清岡市内にある食品サンプル製造会社に勤務していた。
「え、送別会⁈今朝、何も言ってなかったけど、随分と急なんだね」
『あー、いや。まあ、なんて言うか、うん。急に言われてな……。それに、お世話になった人だから出ないわけにもいかなくてな。だから……』
「その口ぶりだと、言い忘れたって感じだけど?」
クロウは、ため息混じりにそう言った。
『まあ、そうなんだけどもさ……』
「父さん、また、悪い癖がでてるよ」
シロウには語尾に、けどもさ、を付ける癖があった。「まあ、いいや。わかったよ」
『悪いな』
「お土産、よろしくね」
『おいおい、行くのは居酒屋だぞ?お土産なんて……』
シロウがそう言うと後ろで誰かの声が聞こえた。『あ、はーい。それじゃ、何か適当に買って帰るから。じゃ、』シロウは、そう言うと電話を切った。
「送別会ねぇ……。自分ばっかり、良いもん食べちゃってさぁ、」
クロウは、不満げにそう呟いた。
「とりあえず、今日は冷食でいいにしちゃうかな?何か買って帰るって言ってたし」
キッチンに行き、冷凍庫を開ける。しかし、中には、アイスクリームや保冷剤、それに冷凍の野菜が入っているだけで、すぐに食べられそうな冷凍食品は一つもなかった。
「うそ……」
クロウは、そう呟くと深いため息をついた。「今から、向かいのスーパーに……いや、どうせだったら食べに行った方が早いかな?たしか、エビッスに……」
クロウは、エビッスを開いて近くの飲食店で使えそうなクーポンがないか、検索をかけようと居間に戻りスマホに手を伸ばそうとした。
「……あ、そうだった。壊れてるんだっけ……。あー、やっぱり色々と不便だよなぁ……。スマホがないと、」クロウは、そう言うとソファに腰を下ろした。「公共交通機関は、現金が使えるからいいけど、他は殆どがキャッシュレスになっちゃってるからなぁ……。エビッスが使えないってなると、現金払いって事になるけど……。でも、この近くに現金が使える店なんてあったっか?」しかめっ面をして唸りながらしばらく悩む。そして、ある店が思い浮かんだ。
「あ、南中央通りのラーメン屋なら確か……」
パソコンで、グルメサイトにアクセスし、ラーメン屋の名前を入力して検索する。
「やっぱり」
店名の下には、〈現金可能〉と小さな文字で書かれていた。
「よし、ならここにするかな」
そう呟いて、ポケットに財布を突っ込んだ。「あと、ついでにスマホを修理に出してこよう」
クロウは、スマホと保証書を小さなバッグの中に入れると、パソコンとエアコンの電源を切り、戸締りを済ませると和室に行き、母の遺影に手を合わせた。
「じゃ、行って来るね」
クロウは、そう言った後、自宅から出ると、丁字路を左に曲がって南中央通りに抜ける道をまっすぐ歩いていった。
目的のラーメン屋は、南中央通りとの突き当たりに面した一角にあった。
店内に入ると「いらっしゃいませーっ」と威勢の良い掛け声が聞こえてきた。早い時間というのもあってか、店内は閑散としていた。
「一名様ですか?」
近くにいた女性店員は、笑みを浮かべながらそう言った。
「はい」
「お好きな席にどうぞ」
店員がそう言うと、クロウは、一番奥のカウンター席に腰を下ろした。
席に着くと、すぐに別の店員が水とおしぼりを持ってやってきた。
背の高い男で、髪は金色に染められていた。彼は、手慣れた手つきでテーブルの上に置いていき「お決まりになりましたらこちらのボタンでお呼びください」と言って軽く一礼するとその場を去っていった。
「さてと、どれにするかな」
クロウは、そう呟くとメニュー表を開いた。写真は少なく、ほとんど、文字だけだった。下の方には、麺の硬さや背脂の量が選べる事やネギが入れ放題である事が書かれていた。
しばらく悩んだ後、クロウは、全部乗せラーメン並を注文した。麺の硬さは硬めで、背脂の量は、普通にした。ラーメンは、それから一〇分も経たないうちに運ばれてきた。
「お待たせしました」
店員が、そう言いながらクロウの目の前にラーメンが入った丼を置いた。店員は、丸めた伝票を円筒形のアクリル樹脂製のスタンドの中に入れると、一例して去っていった。
「いただきます」
クロウは、箸を取るとそう呟きながら食べ始めた。
背脂が浮く醤油ベースのスープの中に細いストレート麺が折り重なるようにして入っていた。その上には、表面を埋め尽くさんばかりにチャーシューやメンマ、味玉が置かれていて、端の方からは、海苔がちょこんと顔を覗かせていた。
スープを一口啜ると、焦がし醤油の苦味が口いっぱいに広がった。クセはあるが、それほどしつこくはなかった。
麺を摘み、ズーッと勢い良く啜る。硬めのストレート麺は、もちもちとした弾力ある食感で、小麦の味がしっかりとしていた。ラーメンというよりは、何も付けていない食パンを食べているような感覚だった。
麺を食べ終えたクロウは「すみません、」と近くにいた店員に声を掛けた。
「替え玉、一つお願いします」
「かしこまりました」
店員は、そう言うと軽く頭を下げて厨房の方に向かっていった。




